校長室から

「生きている」授業は採掘作業のよう(2年と4年の授業から)

2020年7月20日 12時15分
保護者向けの話

 前回、本校ホームページの中で、「授業が生きていると感じられる授業がいい授業であり、それは思い思いに好きなことを言っているだけでは、質の浅いものと言わざるを得ない」と書かせていただきました。

 2年生の国語「あったらいいな こんなもの」では、思考ツールを活用しながら、学校や家、外などで自身の困ったことを思い出して書いてみるといったことを行っていました。今後の表現活動を行う上での材料探しをするわけですが、まさに自分だけの世界に入り込む真剣な表情が見られました。時々、独り言のように「この前、○○があって…」みたいに呟くと、それを聴いていた他の子が「ああ、そういうことなら私もあった」という顔をしてワークシートに向かうようなことも見られました。


 4年生の国語「新聞をつくろう」でも同じようなことを見ることができました。新聞に書くための材料は既に総合的な学習の時間に調べたものがあります。本時は、新聞を作るうえで大事なことを全員でまとめた後は、個別での作業となります。写真を見て分かるように、それぞれが頭をフル回転させて文章を書こうと真剣に取り組んでいます。


 2つの授業とも、実に奥の深い「生きている」授業だと言えるでしょう。こういう取組は、何だか、掘って掘ってお宝を探し当てるような採掘作業と似ていると、私はよく思います。掘り当てるものは、子どもによって違います。ある子は「へえ」と思える知識かもしれないし、またある子は「自分にもこんなことができるんだ」と自身の可能性に気づくかもしれません。


 

学校と家庭の素敵な関係(校長室から)

2020年7月16日 12時36分
保護者向けの話

 私は、若い頃から参観会とか懇談会とかあると何だかウキウキワクワクしちゃうし、家庭訪問などはいろんなお宅で話がはずんじゃって後ろのお宅に迷惑をかけたことも一度や二度ではありません(本当は良くありませんが・・)。

 保護者と教師が笑顔で気軽に話せる関係を築けると、そのことが子どもにとっては最も安心する環境になることを私は経験の中で知っていたからです。さらに言えば、家庭の中で、親が先生のことをよく言ってくれているのは、学級で子どもを見ていても分かるものです。(逆に言えば、どんなに子どものことを思っていても、保護者との関係を崩すと、子どもに悪影響を及ぼすことも経験の中で知っています)

 極端な言い方に聴こえるかもしれませんが、いつしか私は、子どもの成長を植物に例えると分かりやすいなと考えるようになりました。
 適度な湿り気をもった土や空気等は植物にとって生きるための土台となるもので、いわば子どもにとっての家庭と同じです。一方で、太陽や適度な気温や湿度、添え木等は植物が芽を出した後、元気に育つために必要なもので、いわば子どもにとっての学校と同じだと思うのです。つまり、どちらか一方だけあれば事足りるものではなく、家庭も学校も子どもにとって大切な役割を果たしているということです。

 そういう意味で、学校と家庭は「一人の子どもの可能性を伸ばし、立派に成長させる」という共通の目的のもと、程よい緊張感を保ちながら、連携・協力できるといいなと考えています。

 でも、そうは言っても子どもを育てるというのはそう簡単なことではありません。学校においても、「どうやってこの子に話せばわかってくれるのだろう」「どんな指導をすれば理解できるのだろう」と一人の子どもの指導・支援方法に悩み、関係職員で話し合うことはしょっちゅうあります。そんな時、私は「家庭に相談してみようよ」と先生たちに話します。あくまで「お願い」ではなくて「相談」です。学校での表れをお伝えするとともに、家庭では同じような表れはないのか、あるとすればどんな声掛けをしているのかなどを聴きながら、学校と家庭でできることを一緒に探っていければと思っています。

 一方で、家庭において子育てに迷ったり困ったりしたときには、気軽に学校に相談をかけてほしいなあと思っています。本校の子どもたちは、概して小さい頃から大人からの愛情を受けて育っていることが伺え、そのため情緒が安定し素直で優しい子どもが多いと感じています。そんなご家庭においても子育てに悩むことはあるのではないかなと思うのです。私も2人の娘を持つ父親として25年間やってきましたが、その間、順調だったなどと言うつもりはありませんし、常に迷いながら親業をやってきました。もし相談していただければ、その内容は学校での指導や支援をする際の参考にもなると思うので、大変助かります。

 これからも、学校と家庭は、お互いに気軽に相談しあい、そして「ありがとう」と言い合えるような、いい関係を続けていければと思っています。よろしくお願いします。

子どもに「寄り添う」とはどういうことだろう(校長室から)

2020年7月14日 14時00分
保護者向けの話

 皆さんは、灰谷健次郎(昭和9年10月31日 - 平成18年11月23日)という作家をご存じでしょうか。神戸市立公立学校教員を17年間勤めた後、作家に転身、「兎の眼」「太陽の子」「天の瞳」など多くの小説を世に残します。
 私は、教師になりたての頃、同氏の本を夢中になって読んだことを思い出します。最近、ふとした拍子に、屋根裏の書庫から、もう一度同氏の本を引っ張り出して読むことがあります。ここでは、同氏の著書の中で紹介されることも多い「チューインガム一つ」という詩を紹介しながら、子どもに寄り添うとはどういうことかを考えてみたいと思います。

チューインガム一つ
         
せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごくわるいことした


わたし おみせやさんの
チューインガムとってん
一年生の子とふたりで
チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさん(神様)が
おばさんにしらせたんや
わたし ものもいわれへん
からだが おもちゃみたいに
カタカタふるえるねん
わたしが一年生の子に
「とり」いうてん
一年生の子が
「あんたもとり」いうたけど
 わたしはみつかったらいややから
 いややいうた


一年生の子がとった


でも わたしがわるい
その子の百倍も千ばいもわるい
わるい
わるい
わるい
わたしがわるい
おかあちゃんに
みつからへんとおもったのに
やっぱり すぐ みつかった
あんなこわいおかあちゃんのかお
見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない
しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
おかあちゃんはなきながら
そないいうねん


わたしひとりで出ていってん
いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても
どこへもいくとこあらへん
なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん
おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん
けどおかあちゃんは
わたしのかおを見て ないてばかりいる
わたしは どうして
あんなわるいことしてんやろ


もう二日もたっているのに
おかあちゃんは
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしよう

 
 この詩は同氏が担任をしていた小学校3年生の女の子の詩だそうです。文章や詩を書くことが得意な子どもなのかといえば、決してそうではなかったそうです。初め、「チューインガムを盗んだ。もうしないから、先生、ごめんしてください。」という意味の簡単な紙切れをもって母親と一緒に同氏の元に来たそうです。彼女に対して「本当のことを書こうな」と一言言って、母親には帰ってもらって、彼女と二人きりになったそうです。
 彼女は、一言書いては泣くし、一行書いては泣く、泣いている時間の方がはるかに多かったというのです。さらに彼女と同氏の間で、言葉のやり取りは全くなかったというのです。

 教師にとって、これほど辛く苦しい時間はなかっただろうと想像します。許しを乞う子どもを目の前にしたら、「分かったよ。もう同じことしちゃダメだよ。」と言ってあげたら、どんなに楽でどんなに優しく見えるでしょう。でも、許してあげることで、子どもが自分の内面を見つめるという作業を奪ってしまうことにもつながります。

 

 悪いことをするというのは人間の恥部をさらすことであり、できれば隠しておきたいと思うものです。ましてや、自身の良くない行為が見つかった後、自身を見つめることは最も苦痛な作業であり、できれば避けて通りたいと思うのは、大人でも子どもでも変わらないでしょう。でも、このことをやらないと、人間としての成長は難しいことも、大人なら誰しも分かることです。

 「わたしがわるい その子の百倍も千ばいもわるい」「わたしは どうして あんなわるいことしてんやろ」「せんせい どないしよう」と自分を見つめ、次からどうしたらいいのかを考えることこそ、子どもの成長には欠かせない作業だと言えます。

 同氏は、著書の中で次のように述べています。「あの作品が生まれるまでに彼女はどれくらいひどい血だらけの格闘をしたか。それはまた同時にぼくが血だらけになるということでもあるわけです。(中略)その辛さをお互いに耐え抜くことが、教師と子どものたった一つのどうしても抜きがたい関係だというふうに考えているわけです。」

 私は、これまで教師としても、親としても、これほど真正面から子どもと格闘したことがあっただろうか、反省しきりです…。

「授業が生きている」と感じる瞬間(校長室から)

2020年7月13日 13時06分
保護者向けの話

 子どもたちが学校にいる時間の中で、「授業」は最も長い時間を占めています。これが、「教師は授業で勝負する」と言われる所以です。昨年度末の学校評価アンケートの中には、「子どもたちを引き付ける工夫のある授業で興味関心をもって学習に取り組める学校であることを望む」「子どもの興味がわく授業をすれば、もっと勉強が楽しくなると思う」などの手厳しい意見を書いていただいた方もいました(こうやって書いていただけるのは、学校への期待の表れだと思っていますので、とても嬉しいことだと捉えています)。

 先生たちは昨年度以上に学年団での話し合いも熱心に行い授業改善に取り組んでいます。私は毎日、ふらりと各学級の授業を参観させてもらっていますが、授業改善の成果は確実に出始めているように感じています。
 下の写真は、本日3校時の3年生と5年生の社会科の授業風景です。調べたいと思ったテーマごとにグループを作り、話し合っているところです。どの写真も子どもたちの真剣な表情が写し出されています。5年生の教室に入った瞬間、「テストをやっているのかな」と思うほどしーんと静まりかえっていて、一人学びもしっかりできていました。


<3年生の授業風景>


<5年生の授業風景>

 どんな授業がいい授業なのか・・一言で言えば、「生きている授業」なんだろうと私は思っています。「生きている」とは、みんながいっぱい発表していることとは少し違います。思い思いに好きなことを言っているだけでは、まだまだ授業の質とすれば「浅い」のです。一人ひとりがじっくり考え「分かった」と明るい表情になる、たどたどしくも友達に自分の思いを伝えることができて「自分にもできた」と思える、友達の考えを聴いて「なるほど」「へえー」と思わず呟きの声が出る、そんなふうに1時間の授業の中で子ども自身が「変わる」ことができる授業が「授業が生きている」のだと考えます。さらに言えば、教師も、子どもの発言を聴いて「その考え、もっと聴かせて」「その考え方はすごくおもしろいね」と感動できる授業は、まさに「生きた授業」と言えるでしょう。

 ぜひ、お子さんが家に帰ったら聞いてあげてください、「今日は、学校で新しい発見ができた?」と。

学年の枠を超えた「運動会」のあり方を考える(校長室から)

2020年7月10日 11時18分
保護者向けの話

1 はじめに
 これまでもお伝えしている通り、今年度は「異学年交流(ファミリー活動)」を学校経営の柱の一つとしています。日課表に「ファミリータイム」を週2回設定したこと、ピアサポート講習会もファミリーグループで行ったことなど様々な取組を進めています。(本音を言えば、2学期から給食もファミリーグループでと考えておりましたが、感染症対策のため目途が立たず忸怩たる思いをしています)
 大きな行事も異学年交流の重要な機会ととらえています。当日だけでなく、企画運営の段階から異学年でのかかわりを深めることで、低学年は高学年をロールモデルとして憧れを抱き、高学年は低学年から認められ自己肯定感を高められることを期待しています。
 運動会についていえば、感染症対策の一環で休校措置を講じたことから、5月から10月24日(土)へと実施日を変更しました。平成18年度までは秋に運動会を実施していましたので、春から秋への移動は14年ぶりということになります。
 春の実施であれば、運動会をきっかけに異学年の子ども同士の仲が深まることを目的にするのですが、秋に移動したということで、運動会の目的もこれまでの異学年交流の取組の成果を保護者や地域の方々にお見せすることにシフトチェンジすることになります。

2 今年度の主な取組について
 種目や日程等詳細については後日職員会議でつめていきますが、大きな方向性については概ね以下のように考えています。
(1) プロジェクトチームの編成
 1年生から6年生までの代表児童を募り、プロジェクトチームを編成する予定です。本チームにおいてファミリー種目を3種目程度決めていきます。種目を決めた後も、全校児童への周知、練習、当日の進行等も本チームの子どもたちにお任せします。子どもたち自身で運動会という一大行事を作り上げる喜びを味わってほしいと考えています。
(2) 紅白対抗からファミリー対抗へ
 ファミリーグループで作戦を立て、練習を重ね、お互いに応援する・・そうすることでグループでのまとまりが高まることを期待しています。運動会でのモチベーションを高めることの一つに「得点」があると考えます。今年度は、紅白対抗からファミリー対抗にすることで、「得点を上げるためにどうすればよいか」とより話し合いも進むのではないかと考えています。
(3) ひるがえれ!夢ファミリー旗について
 この種目は、平成3年度から約30年間、運動会での縦割り種目として行われてきました。しかし、本種目は地面にくぎを打ちつけることや高い棒の上に旗を取り付けるなど安全上のリスクがあること、当日は一人ひとりの子どもが活躍する時間は限られ見ているだけの場面も多いこと、上記のとおり今年度は企画運営の段階からファミリーでの活動を行うこと などの理由から、「ひるがえれ!夢ファミリー旗」は実施しないということにします。ただし、何度も申し上げるように、方法は変更しても「異学年での交流の機会充実」という目的はこれまで以上に達成できるものと考えております。

<昨年度の「ひるがえれ!夢ファミリー旗」の様子>

3 おわりに
 10月実施ということで、昨年度より熱中症のリスクは減るのかもしれませんが、一方で新型コロナウイルス感染症への対策は十分に講じていく必要があります。今後、参観の仕方や種目等への参加の仕方など保護者や地域の皆様にお願いをしていくこともあろうかと思いますが、何卒ご協力をよろしくお願いいたします。

過去からの思わぬ「お手紙」が…(校長室から)

2020年7月9日 07時34分
保護者向けの話

 先日、3階パソコン室の黒板をホワイトボードに張り替えました。これは、チョークの粉が舞わないという衛生面はもとより、パソコンで作ったプレゼン資料を簡単に投影できるという機能面も考えての工事でした。

 びっくりしたのは、黒板を取り外した後の壁面いっぱいに、何やらたくさんの文字が書いてあるのです。よく見ると、「1983年1月29日(土)」という言葉が何か所か書かれていること、「向笠小さようなら ありがとう」「新校舎こんにちは 木造校舎さようなら」などの文字も見えます(名前や住所も書かれていましたので、これは目隠ししています)。

 学校沿革誌等を調べると、それまで現在の向笠交流センターが建っている場所にあった木造校舎から、現在の校舎に改築したのが1983年(昭和58年)3月ということになっています。そうすると、ここに書かれたのは、新校舎に移ってくる前、教室に黒板がはめ込まれる前に、当時の先生と子どもたちが記念に好きなことを書こうということになったのかもしれないなと想像します(現在のパソコン室は、昭和58年度には5年生の教室として使用されています)。


<昭和55年当時の旧校舎全景写真です>

 壁面の文字をじっと見ていると、明るい笑顔と、はしゃいだような、それでいてちょっぴり寂しそうな、そんな声まで聞こえてきそうです。と同時に私たちは遠い過去から、愛すべき場所である「学校」というバトンを引き継いで現在をひた走っているという責任の重さみたいなものも感じます。多くの人々が愛し育てたこの向笠小学校を、私たちは守り育てなければと改めて感じた一瞬でした。

 これを書かれたのは、今から37年前となりますので、現在は40代後半になられていることでしょう。この当時のお話を聴かせていただける機会があると嬉しいなあなどと思っています…



…上記のページを掲載して間もなく、昭和58年当時に本校にお勤めになられた先生からご連絡をいただきました。その先生によると、「新校舎の完成前に当時の校長先生が配慮してくださり、みんなで書いた覚えがある」とのことでした。まさに粋な配慮をしていただいたなあと思うと同時に、もしかすると他の教室の黒板の後ろにもこういったメッセージが残されているのかもとワクワクしてしまいます。

子どもたちに学ぶことの「楽しさ」を伝えたい(校長室から)

2020年7月7日 12時25分
保護者向けの話

 前回(7月2日)、本校ホームページに記載した「「許せる人」「感謝する人」にと願いながら・・(校長室から)」の中に、「学ぶことは変わること」と書きました。
 学ぶことを勉強することと言い換えれば、私自身、高校生ぐらいまではそのことが何より苦行でした。なぜなら、一生懸命に暗記してその知識量をテストで競う、点数を見て一喜一憂する日々に、実のところ、自分に何が身についたのかも実感できず、楽しさなど見出すことができませんでした。
 しかし、大学以降、「学ぶことは何より楽しい」ことだと気づいてしまいました。世の中には自分が体験していない出来事が山のようにありますし、知らないこともいっぱいあります。何も知らなかったときは一面的な見方しかできませんが、何かを一つ一つ知ることでいろんな見方ができ世界が明るくなるような感覚にさえなります。このことを、岸 武雄さんという詩人が「わたしはひろがる」という詩の中で表現しています。一節を紹介します。

わたしは小さいとき、
おやつのお菓子が弟より大きくないとおこった。
じだんだふんで泣いたこともある。
わたしが世界のすべてであった。
わたしが世界のすべてであった。

やがてわたしは、弟もわたしと同じように、
大きいお菓子をほしがっていることが、わかってきた。
わたしはけんかしながらも、
同じように分けることをおぼえた。

ときには、弟があまりうまそうに食べるので、
自分のぶんも分けてやった。
弟といっしょにお菓子を食べると、
お菓子の分量はへったが、なんとなく楽しい。
こうして、わたしの中へ弟がはいってきた。
こうして、わたしの中へ弟がはいってきた。

 この詩はまだまだ続きがあります(全文がお読みになりたい方はこちら.pdf)。弟と一緒に食べることを知って「お菓子の分量は減ったけど楽しさを知った」とあります。まさにこれが「学び」だと思うのです。学ぶことはこのように変わることであり、変わることは楽しいことなのです。極論を言えば、小学校教育では、こういった「学ぶことの楽しさ」を子どもたちが実感できれば、目標の大部分は達成していると言ってもいいかもしれません。

 どんな仕事でも、うまくいかないことはあります。スランプにも陥ります。その時に「何が課題なのか」「どうすればいいのだろう」と考え、自分なりに行動に移していく中で、ある時ふと解決のヒントが見つかる、それが次の仕事へのステップになります。子どもたちが大人になってどんな仕事に就くにしても、うまくいかないから簡単にあきらめるのでなく、頑張って成功してほしいと願うのは私たち大人は皆同じように思うでしょう。
 子どもたちの学びも同じです。課題を解決するために、時に友達と相談したり議論したりしながら、自分なりにいろいろと調べる中で「分かった」と思う瞬間に出会う・・簡単にあきらめずに、この楽しさに出会わせたいのです。そのためには、大人が先回りしないことだと思っています。ヒントを言いたいのをぐっとこらえて、どっしり構えて見守るといったことも必要だと思っています。

教師という仕事のすばらしさを強く思う(校長室から)

2020年7月6日 11時22分
保護者向けの話

 先週末、熊本県では豪雨のため被災された方も多いと聞きます。本校は自然豊かな環境の中に立地しているので、何だか他人事だとは思えず、映像から目をそむけたくなる思いでした。心からお見舞い申し上げます。

 さて、県教育委員会のホームページを見ると、先週末には、令和3年度教員採用選考1次試験が行われたようで、小学校教員に833人、中学校教員に748人もの若者が挑戦したということでした。様々な媒体で、教員の仕事は長時間労働であることやクレームも多いことから「ブラックだ」と言われて久しいですが、これだけの若者が教員になりたいと思ってくれることに嬉しい気持ちになりました。これらの若者にぜひ、「子どもの明るい声と笑顔の中で仕事ができる教員という仕事はいいぞ」と言ってあげたい気分です。

 確かに大人が仕事として行うのですから厳しさはあります。子どもの頃のように頑張っていることだけでは褒められるなどということは絶対にありません。いい授業をしなければいけないし、子どもたちの安全・安心を保障しなければいけません。でも結果を求められるのは、教員に限ったことではなく、どんな仕事でも一緒だと思うのです。いい結果を得るために常に努力しなければいけないことも、教員に限ったことではありません。

 教員の仕事は、数字で結果が出るわけではありません。子どもの表情が教員の仕事の良しあしを物語ってくれます。子どもは正直ですから「もっとやりたい」と嬉しいことを言ってくれる半面、「つまらない」とも言ってくれます。

 個人的な話をすると、私も学級担任の頃、子どもの笑顔を勝ち取るためにどんな授業をしようかと長い時間悩みましたし、保護者に私の思いや学級の現状を伝えたいとの思いから週に2~3回は学級だよりを出していました。子どもとは1日おきの交換日記もしていました。まさに寝る時間を惜しんで・・といったところですが、自分がやりたいと思ってやっていただけですので、「多忙感」を感じたことはありませんでした。逆に楽しくて仕方ありませんでした。
 でも、私が学級担任の時に行った上述のことを本校の先生たちに求めようとは思いません。本校では、既にそれぞれの先生がそれぞれのやり方で結果を求めるために懸命に努力してくれていることを私は知っていますから・・。

 もう一つ、個人的な話をすると、私は学級担任であった頃、保護者からどれだけ励まされたか分かりません。私のやり方に理解できないとき、「先生のあのやり方はおかしいと思うのですが・・。」と冷静に意見を言いに来てくれた保護者もいました。そんな時は「確かに○○さんの言う通りです。ごめんなさい。」となるわけです。本読みカードや連絡帳に書いてくれた「ありがとうございます」の保護者からの一言に救われたことは数知れません。そんな一言で、教師は「また頑張ろう」と思えるのです。


 私は、これまで県教委や市教委にも勤務させていただいたこともありますが、やはり学校で勤務する方が何倍も楽しいです。これは、どちらの仕事がいいかを論じるものではありません。行政職で懸命に努力されている方も大勢いますし、その仕事に情熱を燃やしている方も見てきました。でも、私は子どもたちが目の前にいる今の仕事の方が楽しいと思っています。
 さらに市教委にいるときは、多くの保護者や市民の方から意見をいただくこともありました。かなり感情的に話される方もいますが、よくよく聞いてみると、学校や学校の先生に期待を抱いてくださっていることが分かります。「世の中には悪いことをする人もいっぱいいるけど、学校は夢を語る場所であってほしいし、学校の先生にだけはそうなってほしくない・・」といった思いから意見を言ってくださっていることがよく分かりました。

 子どものために働きたいと心から思っている若者にこそ、学校の先生になってほしいと強く願っています。教師という仕事は、私が30年以上やっても未だ飽きることがない仕事ですし、それどころか奥が深くやりがいのある仕事だと、胸をはって言えます。

授業と評価はどのように変わるのか(校長室から)

2020年7月3日 14時27分
保護者向けの話

1 学校が担う役割の変化
 (1) 教育基本法により、義務教育の目的は、①個人の能力の伸長 ②自立的に生きる基礎 ③国家社会の形成者として必要とされる基本的資質を養う とされていて、これについては以前から何ら変わるものではありません。つまり、子ども自身の可能性を伸ばすとともに、個々の良さを社会に役立てられる人間に・・といったところだと思います。
 (2) かつて学校というところは、社会に役立つための最新の知識や技術を教えてくれるところでした。しかし、技術革新が進み、世の中が急激に変化する今、身につけた知識や技術は明日になればもう古くなっているなんてこともあるわけです。だから、学校は子どもたちに知識や技術を身につけるだけでは足らなくなり、新しい知識等を自ら得るための過程を学ぶ場所としての役割が浮上してきました。

2 学習指導要領の大きな変化
 学校が、どの教科のどのような内容をどの程度の時間学習するのかについては、きちんと法律(学校教育法施行規則)で規定されています。学習指導要領には、法律に基づき、上記のことをさらに細かく規定していますが、これまでは「教師が子どもたちに何を指導するのか」という観点で記載されていました。しかし、本年度から本格実施された学習指導要領では、学習者主体で様々なものが規定されており、なかでも初めて「子どもたちがどのように学ぶのか」といった学習過程にまで踏み込んだ内容になっています。このことからも、学校は知識や技術を教えるところから、学び方を子どもたち自身が身につけていく場所へと、その役割の変化が伺えます。

3 主体的・対話的で深い学びへ
 かつては、「チョークとトーク」で一斉に講義する授業スタイルの先生も多くいましたが、今や時代遅れと言わざるを得ません。子どもたちは教師から講義を受けることで知識は身につくかもしれませんが、上述のとおり講義形式の授業ばかりだと新しい知識を子ども自ら得るための経験を奪ってしまうことにもなりかねません。
 下の写真は、この日(7月3日)の6年生の算数の授業風景です。めあてを解決するために、小グループで意見を出し合い一つの考えにまとめていく、さらにほかのグループの子どもたちに分かってもらうための論理的な説明方法を考えます。こういったことは、教師が全部説明してしまうことはたやすいことですが、今はこういった子どもたち同士で学び合うような学習過程をすごく大事にしています。



4 評価の観点も変わります
 今回の学習指導要領において、上述のとおり子ども自ら新たな知識や技術を得るための学習過程を重視していることもあり、観点別評価においてもこういった学習過程での子どもの表れをしっかり評価するとともに、子どもの変容を通して教師自身の指導のあり方も評価しなさいと規定されています。
 かつての「関心・意欲・態度」を評価する場合、ともすれば挙手の回数やノートの丁寧さなど一過性の表れで良い評価をすることがありました。しかし今回の「主体的に学習に取り組む態度」の評価は違います。例えば、あるめあてに対して子ども自身で予想します。その後、この予想が合っているのかどうかを調べて結果を出すという学習に移ります。何を調べたらよいかを考え、図鑑やインターネットを見て、友達にも聴いてみる、こういった粘り強さがあるかどうかを見ます。さらに友達同士で話し合って建設的に考えを高め合うことができるか、結果がうまく出ない場合にどうすればいいのだろうかと考えてみることができるか、など自らの学習を調整することができるかも見ます。
 したがって、新たな知識や技術が身につくまで粘り強く自ら学習に取り組んだかどうかを見ていますので、これまでのように発表は頑張ったけど知識は身についていないなどの場合は「主体的に学習に取り組む態度」は良い評価にはならないということになります。

5 おわりに
 今回は、「子どもたち自身の学び方」に着目した新学習指導要領の改訂についてお話ししましたが、実はもう一つ、大きな改訂点があるのです。それは、「情報活用能力」を「学習の基盤となる資質・能力」として位置づけたことです。文部科学省のある方は、すべての学問の基礎である「読み・書き・算盤」に「情報活用能力」を付け加えたと言っても過言ではないとも説明しています。今後、デジタルデバイスを家庭でも学校でも「勉強道具」として使いこなすということが求められます。本校においても、子どもたちが主体的に学べるように、こういったツールを効果的に使えるよう研修を進めていきます。

「許せる人」「感謝する人」にと願いながら・・(校長室から)

2020年7月2日 12時15分
保護者向けの話

 教育の本当の成果は10年・20年先に分かるとよく言われるとおり、教師なら誰でも教え子の将来を夢に見ながら教育活動を行います。
 かくいう私も、昨今のネットやマスコミでの徹底的な「他人たたき」を目にするたびに、本校の子どもたちにはぜひ「許せる人」になってほしいなあと願うばかりです。

 誰かを「許せない」と感じるのは、その人の価値観とは違う言動を見たときに沸き起こる感情で、その人の「正義」の名のもとに他人たたきを始めるのだと考えられます。その気持ちも分からなくはないのですが、私はやはり本校の子どもたちには「許せる人」に育ってもらいたいのです。

 「正義」を振りかざし徹底的に自分の価値観と合わない人を叩きのめすと、もしかしたら当の本人は気持ちがいいのかもしれません。でも、相手にも理由もあるでしょうし、そうせざるを得なかった状況もあるかもしれません。そもそも人の数だけ「正義」はあるし、国の数だけ「正義」はあります。お互いに「正義」ばかりを振りかざしているとけんかや戦争は絶えません。ぜひ、子どもたちには相手の「痛み」に思いを馳せられる人になってほしいものです。

 さらに言えば、相手を許せず文句ばかり言う人のまわりからは、どんどん人は遠のいていきます。結局は寂しい人になってしまうと思うのです。子どもたちにはそんな寂しい思いはさせたくありません。作家の曽野綾子氏は、著書の中で、「感謝の人」のまわりにはまた人が集まる、「文句の人」からは自然に人が遠のくのと対照的であると述べています。その通りだと感じます。

 では、どうすれば「許せる人」になれるのでしょうか。まず、相手の言い分を聴こう、相手を取り巻く状況を見てみようと思える心のゆとりもつことだと私は思います。さらに言えば本物の学びを体験することだと考えます。知識を得るだけが学びではありません。学ぶことは変わることです。「ああ、そういう見方もあるんだ」「そうやって考えてみればいいんだ」と、見方や考え方が広がる、深まることこそ、本物の学びです。子どもたちにこういう体験をさせようと、先生たちは日々頑張ってくれています。

 「日本は、不寛容な社会になってきている」と評する人もいるようですが、まさに失敗を許さない雰囲気があり、「窮屈な世の中になったなあ」と感じることも多くあります。本校の子どもたちには、こんな窮屈な世の中を創り出す人にはなってほしくないと願うばかりです。