保護者向けの話
6月21日(金) 午後7時から、PTA3役及び各専門部代表者に集まっていただき、第3回本部役員会を実施しました。本会における協議内容は、各部の活動報告と今後の予定について確認を行うことに加え、8月24日(土)の奉仕作業終了後に行う役員選考会の実施方法について協議するというものでした。
この日は、協議の前に、校長から来年度、新学習指導要領が本格実施されることに伴い、早い時期から対応を始める旨の話を行いました。内容は下記のとおりです。
本日はお忙しい中、第3回PTA本部役員会にご出席いただき、ありがとうございます。
PTAの主だった方々がお集まりの機会ですので、 新学習指導要領全面実施に向けての取組についてお話をさせていただきます。
学習指導要領は各学年の指導内容や標準授業時数等について示したもので、約10年毎の改訂になります。これほど大掛かりな改訂は、私の教職経験を振り返ってもはじめてのことではないかと思います。その一例を申し上げます。
外国語活動及び外国語科の授業時数が増加されます。現在、3年が15時間、4年が20時間、5・6年は50時間の授業を行っていますが、来年度から3・4年が35時間になりますから15~20時間の増、5・6年は70時間になりますので、こちらも20時間の増となります。この時間を何とか生み出す必要があるのですが、簡単に言えばまとめてとるか、分散して取るかということになります。まとめて取るというのは、夏休みなどの長期休業日を減らして授業日にするという方法です。分散して取るというのは、週当たりの授業時数を増やす、つまり6時間目の日が増えるということになります。ただし、単純にこのようなことをすると、子どもたちに負担がかかるのは目に見えています。
懸念材料はこれだけではなく、教師側の課題もあります。外国語科にしても、道徳にしても評価まで行うようになるし、教科や単元を決めてプログラミングを実施しなければなりません。こういったことは、いわば教師にとっても初めての経験ですので、授業準備の時間をしっかり取らなければ、子どもたちにとって「面白い」と思える授業を実施することも難しくなります。
つまり、このまま何も変えずに、ただ授業時数を増やすのでは、子どもにとっても教師にとっても負担が大きくなるといえます。これまで「子どもたちのためになる」といって続けてきたことにもメスを入れ、学校行事等の中で本当に重要なものはどれか、優先順位をつけて「やめる、かえる、へらす」ことをやっていく必要が出てくると考えています。
そこで、今の時点から、職員の中でプロジェクトチームを作り、学校行事や日課表など、いろいろなものの見直し作業に着手しはじめましたことをこの場でご報告しておきます。
年末になり、少しまとまってきたところで、皆さんにもご報告、ご相談をさせていただければと思っています。以上、よろしくお願いします。
保護者向けの話
子どもたちの希望を育む場所に
私には忘れられない2つの光景があります。1つは先生になりたての頃のこと。休み時間に子どもたちと話をしていたとき、その中の1人が「私、先生になりたい。」と言うから、「どうして?」と聞くと「だって、先生見てるとすごく楽しそうなんだもの。」との答え。
もう一つの光景は、教師として脂ものってきた30代後半の頃、同じように休み時間に子どもたちと話をしていた時のことです。「私、先生にはなりたくない。」「どうして?」「だって、先生見てると、先生って仕事、すごく大変そうなんだもの。」との答え。
その時、同じ教師として働くならば、子どもたちに「こんなふうに生きてみたい」と希望を持たせるような仕事をしなければいけないなと反省しました。
その思いは今も変わりません。学校は子どもたちの希望を育む場所にならなければと強く思っています。
保護者向けの話
大勢の方々にお集まりいただきまして、ありがとうございます。校長の佐伯泰司と申します。よろしくお願いします。
さて「交通安全リーダーと語る会」というのは、名称こそ多少の違いはあれど、概ねどの学校でも昔から行っている会議であります。私の経験で申し上げると、このような会の最後は、「6年生がリーダーとしてもっとがんばらねば・・」とか「信号や標識に注意して歩道をしっかり歩きましょう」などと子どもたちに注意喚起して終わるものが多かったです。
しかし、最近の世の中の情勢はそんな甘いものではありません。5月には滋賀県大津市で、6月には兵庫県西宮市で散歩中の園児の列に自動車が突っ込む事故があり、同じく6月には名古屋市で自動車が小学校に突っ込む事故がありました。さらに、交通事故ではありませんが、5月には川崎市多摩区でスクールバスを待っていた児童を刃物で刺すという事件も起こりました。
こうなると、こちらがいくら標識や信号をみて正しく歩いて登下校したとしても、それだけでは足らないということになります。
私はできるだけ、朝の校門に立って、子どもたちの登校の様子を見守るようにしています。概ね、リーダーとなっている子どもたちは、時に気疲れするのではないかとこちらが心配になるほど、下級生のことにまで気を配り、まとまって登校しているように思います。
今日は、リーダーとして毎日の登下校で危険を感じることはないか、地域の方々が見た様子はどうかなど、日頃感じていることを出し合ってほしいと考えています。
先日の会礼で「いのちは大事にしなければいけない。この中で、いなくなってもいい子やいじめられてもいい子は1人もいません」と話したばかりです。交通事故で命を失うなどと絶対にあってはならないことです。今日の会が有意義なものになることを願って挨拶とします。
教師向けの話
「大阪府吹田市の小学校5年女児が同級生から長期の集団いじめを受けていたにもかかわらず、学校や市教育委員会は約1年半にわたって放置されていた」というニュースを耳にして、私は何だかいたたまれない思いになり、急いで自分の思いを綴り、職員に配布しました。
以下は、その資料の内容を再編集したものです。
1 事件概要(静岡新聞6月14日朝刊から抜粋)
○ 大阪府吹田市の市立小に通う小学校5年女児が同級生から長期の集団いじめを受けていたにもかかわらず、学校や市教育委員会は約1年半にわたって放置していた。
○ 女児の担任だった複数の教諭が、いじめを訴えたアンケートを紛失、破棄していた。1年次のものは破棄され、2年生の2学期のものは紛失していた。
○ 当該女児は、2年生1学期に生活アンケートで被害を訴えたが担任は対応せず。その後、女児は1年半に渡っていじめを受け続けた。
○ 当該女児の保護者は、兄弟の担任にも被害を訴えたが、担任は加害男児に注意や指導をせず、校内で問題を共有することもなく、いじめを放置した。
○ 同校では、いじめアンケートの取扱いを各教諭に委ねていた。
2 いじめの定義とは
○ 平成25年以降、いじめとは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」と定義されており、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとされている。
○ つまり、女児がいじめを訴えたことを受けて、学校は即座に本事案を「いじめ案件」として対応する必要がある。いじめられた児童生徒の立場に立たなければならない教師が、「この案件はたいしたことない」などと勝手に考えることはもはや許されることではない。
3 教師の仕事は「想像力」の上に成り立つ
○ 教諭の職務内容は、学校教育法第37条に「教諭は、児童の教育をつかさどる」と規定されている。「つかさどる」と規定されている以上、教諭は児童の教育の一切について責任を持たなければならない。その責任は大変重い。
○ 私は常々、教師の仕事は想像力がないとできないものだと考えている。子どもの表情を見てその奥に隠された思いを「想像する」、何か教育活動を行う前にどんな危険が隠れているだろうかと「想像する」・・・あらゆる場面で「想像力」を働かせることができないと児童の教育をつかさどることなど、到底できないと思う。
○ そういった観点で本事案を見ると、明らかに教師側の想像力の欠如である。当該女児にしてみれば、いじめアンケートに書くだけでも緊張しただろうし、そもそもアンケートに書こうと思うまでによほどの勇気を要したに違いない。そういった女児の思いを、担任は想像することができなかった。この責任はやはり重すぎる。
○ 教師が想像力を働かせるためには、子どもを理解しようとする意識を強く持つことは言うまでもない。そのうえで指導場面と支援の場面ははっきりと切り分ける必要がある。指導すべき時は、子どもの前面に立ってしっかり話す。しかしそれ以外の場面では後ろに回ったり横に行ったりしながら子どもの行動を見守る。その際に細かな安全配慮を行うのである。
4 校内で問題を共有できないのは・・
○ 「いじめアンケートの取扱いを担任に委ねていた」この言葉だけを捉えると、何だか校長は各担任の力量や資質を信用していたとでも勘違いしそうだが、実はこの姿勢にこそ、大きな問題が隠されている。
○ 子どもの表れは多様であり、そもそもいじめなどというものは担任の目の前で繰り広げられるわけがない。隠れたところで起こるからいじめなのである。だからこそ、すべての教職員ですべての子どもの小さな表れを見逃さない体制作りが必要なのである。これは一人の教員を信用しているとかしていないの問題とは別次元である。
○ 子どものことを職員室で語り合える雰囲気こそ大事である。本校の職員はすべての子どものために仕事をしているのだから、愚直に子どものことを理解しようと語り合える集団でありたい。
4 おわりに
○ 私は、教師というのは「心配性」であるぐらいでちょうどいいと思っている。でも同時に、うろたえる姿を晒してはいけないし、特に子どもの前では堂々としていたいとも思う。
○「私は、しっかり学級経営を行っているので、うちのクラスでいじめなど起こるはずがない」と考えるのも危険である。
○ 大人だっていろいろと間違うし、悪いことだって考える。ましてや子どもである。学校という場で、何度でも間違っていいと思う。そうやってどこかで心配しながら子どもを見守り、間違いそうになったらそっと正してあげられる、そんな職員集団でありたいと思う。
子どもたちへのお話
今日は、「いのち」について考えてみたいと思います。
お父さんとお母さんが出会って、みんなが産まれた、みんなはお父さんとお母さんから「いのち」をいただいたとも言えます。
では、このいただいた「いのち」はいったい誰のものでしょうか。
「自分のもの」だとするならば、自分の好き勝手に使ってもいいと言うことでしょうか。自分のものだから、乱暴にいのちを扱ってもいいし、いらなくなったらいのちをなくしてしまってもいいのでしょうか。
いいわけがないですよね。つまり、「いのち」は自分のものなんだけど、自分だけのものじゃないということなんです。これはどういうことでしょうか。
私には、2人の娘がいます。もう2人とも大人になっていますが、2人が産まれた日のことは本当によく覚えています。私と妻は、すぐにでも子どもがほしいと思っていたのに、なかなか子どもは授からなかったのです。だから、産まれた日は本当に嬉しかったのです。下の娘はそれから2年足らずで産まれてきてくれて、喜びは倍になりました。でも、すぐに病気になるし、夜中もすぐ泣くしで本当に大変だったけど、いとおしくて仕方がなかったです。この子たちがいない世界なんて考えられないと思ったし、今もそう思っています。つまり、娘の命は娘のものだけど、勝手に死んじゃったりしたら私や私の妻はとても辛いです。だからそういう意味で娘の命は私や私の妻のものだとも言えます。
これは、みんなにも言えることです。みんながいなくなると、みんなのお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんはすごく悲しみます。だから、みんなの命はそういった家族みんなのものとも言えるわけです。
じゃあ、みんながいなくなると悲しむのは家族だけでしょうか。そんなことはありません。私はとても悲しい。そして担任の先生はじめこの学校の先生すべてが悲しむ。友達も悲しむ。嘘だと思ったら、これが終わったら聞いてみるといいよ。そう考えると、みんなの命はここにいるすべての人たちのものだともいえるわけです。好き勝手になくしちゃっていいものではなく、大事にしなければいけないんだ。もしも、この中で誰かをいじめていたり、「死ね」とか「殺す」みたいな汚い言葉を使っていたりする子がいたら、私はそのことを許しません。なぜなら、この中で、いなくなってもいい子やいじめられてもいい子は1人もいませんから。
では、「自分の命を大事にする」ってどうすることなのだろう。
私の好きな言葉の一つに 「一隅を照らす」という言葉があります。これは、最澄というお坊さんの言葉です。 一隅とは目立たない隅っこかもしれないが、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くということです。決して目立つようなことではないけれど、寂しそうな、悲しそうな顔をしている人にそっと寄り添い、その人の心を暖かく照らしてあげるということです。せっかくいただいたいのちだから、自分のまわりの人の役に立ち、まわりの人の心を暖かく照らしてあげられるひとになってほしいなと思っています。
以上、「いのち」の話を終わります。
教師向けの話
5月25日(土)に運動会は大成功の中、終えることができました。校長として、今年の運動会を総括し、今後の指導に生かしていきたいという思いを込めて、以下の話を全職員に対して行いました。
1 運動会は大成功!
気温30度を超す真夏日になった。にもかかわらず、1人の欠席者もなく、大きな事故や怪我がなかったことは言うまでもない。しかし、それ以上に子どもたちの姿を見て、「今年の運動会は大成功だ!」と強く感じることができた。
まず、子どもたちの表情から一様に運動会を楽しんでいたことが分かる。さらに表現種目等を見ると、練習の時より明らかにまとまっているし、一人一人の動きがきれいだと感じた。高学年は誰に指示されるでもなく、係の仕事に自主的に取り組み、まさに自分たちで自分たちの運動会をいいものにしようとする自治的な雰囲気が見られた。
2 成功に導いた要因を考察すると…
(1) 教師が楽しいと子どもも楽しい
このことは、授業も学校行事も同じである。教師がつまらないと感じているものを子どもが楽しいと感じることは皆無である。まず教師は、授業や学校行事を組み立てる際には「わくわく」「ドキドキ」を強く持っていることが大事である。
練習の時もそうであったが、本番の先生たちの表情を見ていると、実に生き生きしている。こちらがうらやましくなるほどに楽しそうであった。あんな表情を見せられたら、子どもたちは楽しくないはずがない。
(2) 子どもが主体的に活動できる環境づくり
「一生懸命動け!」「自分たちで考えろ!」「しっかりやりなさい」などと子どもたちを鼓舞してみても、子どもたちは決してそんなふうには動いてくれない。指示をすればそのとおりに動くのはロボットだけであって子どもは大人の指示通りには動かない。子どもたち自身で動きを考える時間と機会を設定する、高学年と低学年がともに活動する場を作る‥こういった意図的な環境設定をどの学年でも行ってくれた。
子どもたちが自主的に活動したくなる環境、協力して一つのものを作り上げたくなる環境をどうやって設定するかは、教師の腕の見せどころである。あとは、一人でも二人でも「皆と一緒にやると楽しいなあ」「人ってこんなに温かいんだなあ」と感じてくれればそれでいい。
(3) 自由と責任を感じさせる場に
運動会当日、体育主任から「今日1日は、先生方は、子どもたちを支援する側にまわってください」との言葉があった。教師が子どもに手をかけ続ける間は、子どもは教師に依存し「最後は先生がやってくれる、責任取ってくれる」と思うか、「先生は僕たち(私たち)のことをいつまでも信用してくれない」と反発するかのどちらかである。
だから、運動会当日の出来栄え自体を子どもたち自身に任せて、教師は一切の指導をしないという体育主任の指示は正しいものだと思う。自由に任せてみることで、子どもたちは責任を果たそうと真剣に取り組む。
こういった大一番に子どもたちに任せることができるかどうかは、事前準備でいかに綿密に教師側が安全面に配慮した適切な指導をしてきたかにかかってくる。
さて、自由と責任を任された子どもたちの運動会での様子はどうだったか。まるで私には「ほらね、私たちだけでちゃんとできたでしょ!」と、子どもたちの心の声が聞こえたように感じた。子どもたちは、私たち教師側の信頼にこたえてくれた。
(4) 地域の方々や保護者も楽しんでくれた
大玉転がしで、大人も子どもも一緒に楽しむ姿が見られた、朝から来賓席や敬老席が一杯になるほど応援に来てくれた、準備や片付けでは、お父さんの姿も多く見られた…こんな姿を子どもたちが見て、何も感じないはずがない。少なくとも、安心して学校行事に取り組むことはできたはずだ。
地域の方々や保護者が学校に対して高い関心を示してくださっているうえに、協力を惜しまないという姿勢も強く感じることができた。私たち学校側は、こういった気持ちを大切に受け取りながら、win-winの関係づくりを続けていきたい。
3 運動会で得た成長を分析し、次に生かす
(1) 運動会を一過性のお祭りで終わらせないために
運動会はゴールではないが、中には「燃え尽きた。真っ白な灰に‥」と言っている子どももいるかもしれない。運動会を一過性のお祭りで終わらせないために、まず運動会の反省について話し合ってほしい。その中で一人一人の成長に目を向けさせるほか、学級全体としての成果や今後取り組んでみたいことなど、新たな目標づくりを行ってほしい。
(2) 上記の成功要因を今後の教育活動に生かす
教師が「わくわく」「ドキドキ」するものを子どもに提示し、子どもたちが主体的に活動できる場を設定する、最低限の指導をすればあとは子どもたちに任せ、行動の結果は子どもたち自身に責任を持たせる‥こんなサイクルを日々の教育活動の中に創り出していきたい。
その中に、地域の方々や保護者の協力を得た方がより効果的であるというものがあれば、ぜひ取り入れてみてほしい。
子どもたちへのお話
元気にあいさつをしましょう。「おはようございます」
たくさんの地域の方々、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんも皆さんががんばる姿を楽しみに応援に来てくださっています。みんなでお礼を言いましょう。「ありがとうございます」
さて、今日の運動会を楽しみにしていた子は手を挙げてみて下さい。逆にあまり楽しみではなかった子はいるかな?
ちょっと恥ずかしいことをお話ししますが、私は小さいころ、運動会があまり好きではありませんでした。背が小さくて太っていたために、走るのが遅かったのです。だから徒競争がビリになるのがいやで運動会なんてなくなればいいなと思っていたぐらいです。
大人になって思い返すと、もったいないことをしたなと反省します。なぜなら、ビリでも一生懸命やっていれば何も格好悪くないし、運動会は徒競走だけじゃなく、ダンスだって組体操だってあるし、係りとしての仕事もある。そういったことで力を発揮すれば、きっと楽しかっただろうし、運動会の思い出もいいものに変わっただろうなと思います。
今年度の運動会のスローガンは「心を一つに 向笠っ子 勝利に向かって 突き進め」ですね。私と同じような思いをしないように、自分が出る種目は一生懸命取り組んでください。一生懸命の姿はどんな結果だろうと格好いいです。それからもう一つ、スローガンにもあるように、心をひとつにあわせましょう。心を合わせ、力を合わせることで、小さな力が大きな力になります。ぜひ、クラスで、そしてファミリーで協力する姿を見せてください。これまでの皆さんのがんばりを見ていると、今日は最高の演技をしてくれると信じています。
最後に一つだけ、熱中症にならないように、こまめに水分補給をすることと無理をしないで体の具合がおかしいなと感じたらすぐに担任の先生に言ってくださいね。このことはご家族の皆さんも地域の方々も一緒です。応援にあつくなりすぎて、体まで暑くなったりしないように注意してください。
では、みんな、いいかな! がんばるぞ!「オー」
教師向けの話
1 運動会の準備に感謝
○ 遅くまで運動場等の環境整備を進めている先生方の姿、運動会練習の中でお互いにアドバイスしあう子どもの姿、いつもおとなしい子が大きな声で応援する姿を見て、充実した指導・支援が行われていることを感じています。
○ ぜひ、すべての子どもに活躍の機会が与えられるよう声掛けをお願いしたい。小・中学生の頃の私は、運動会が大嫌いでした。小さくて太っていたため、走るのが遅く、「格好悪い」と思っていたのです。今なら一生懸命の姿こそ格好いいことが分かるし、運動会での活躍場所が徒競走だけでないことは分かります。今考えると、もったいないことをしたと思うのです。
2 PTAだより寄稿文に寄せた思い(詳細は、後日配布されるPTAだよりをご覧ください)
○ 「私、先生だけにはなりたくない。」「先生を見てると、先生ってすごく大変そうだから。」と我がクラスの子どもに言われた時の記憶は消えることはありません。
○ その頃の私は、教師としての知識・技能ともに少しはついてきたと思っていたし、校内外からも少しは信頼され仕事を任されるようにもなっていました。でも、今から振り返ると、きっと子どもの前で、自身の忙しさを表情や態度で出していたのだろうと思います。
○ それ以来、子どもが学校にいる間は、精一杯子どもに向き合おうと強く思っています。そして、「あなたたちといる時間は、何よりも楽しい」という気持ちを全身で表現できる教師でありたいとも思っています。
3 来年度に向けて
○ 新学習指導要領が本格実施され、外国語・英語の時数が増加される(年間15~20時間)、教科学習等の中にプログラミング学習が導入される、道徳の教科化による評価のあり方、他教科の変更点への対応など質的にも量的にも変更が余儀なくされます。
○ さらに、陸上大会や水泳大会、音楽発表会が今年度限りでなくなることに伴い、「大会がなくなったから、子どもの体力や音楽的技能が落ちた」となることは避けたいと思います。
○ このように、小学校現場に求められることは山積しています。これに対応するために、行事や会議の精選や改革など思い切ったことを考えていく必要があります。それぞれの立場から英知を絞り出してほしい。
4 学校HPの充実にかける思い
○ もはや、学校だけで子どもの教育を実施することは難しいことは周知のとおりです。磐田市では新時代に対応する新たな学校づくりとして「多機能型学校」を提唱しています。
○ 本校においても、保護者や地域の方々の協力は、なくてはならないものです。協力してもらうならば、まずは学校の思いややろうとしていることを理解してもらわねばと強く思います。
○ 良いことも悪いことも、きちんと保護者や地域の方々に知ってもらうためのツールとしてホームページは有効であると考えています。
5 昨日の大雨対応
○ 我々がまず考えなければならなのは、子どもの安全・安心です。昨日の朝、私は向陽坂を上り、一緒に子どもたちと下りてくればいいかなと甘く考えていました。実際に行ってみると、足のくるぶしより高く水が勢いよく流れている状況を知り、「これでは登校できない」と即座に感じました。
○ 今回の反省から、この地区は「台風等による暴風警報等発表時及び解除時の対応基準」だけで判断するのは危険であること、まず子どもたちに通学させる前に、学校職員が通学路の安全性を確認すること、そのうえで地区の代表者等とも連携を図ることなどが重要なことであることを強く感じました。もちろん、学府の小・中学校との連絡や市教委への報告が必要であることは言うまでもありません。
子どもたちへのお話
今日は、「進んで」に関連して2つのことをお話ししたいと考えています。
1つ目は、「進んで」何かをやると「楽しい」ということです。
授業中、先生が何か面白いことを言ってくれると「楽しい」って感じるかもしれません。でも、その楽しさは本物ではありません。本物の楽しさは、自分から進んで発表したり、何かの活動に参加したりしてはじめて味わえるものです。
進んで何かをやると、「意外と僕って(私って)できるものだなあ」と自分についての発見をするかもしれない。中には友達や先生から「そんなこともできるんだ、すごいねえ」って今までと違う目で見られるかもしれません。だから覚えておいてください。学校での楽しさは家でくつろいでテレビを見ているときのそれとは違って、自分から進んで活動してはじめて味わえるものだということを。
2つ目は、ではどうやったら「進んで」できるようになるかです。今日はそのコツを教えます。それは、自分で自分のことをほめるのです。「恥ずかしいなあ」「うまくできるかなあ」と思ったときに、「僕なら(私なら)きっとできる」と自分に言ってあげるのです。そして進んで何かやれた時も「よく頑張った」って自分自身に言ってあげるのです。これは心の中で思うだけではなく、ちゃんと口に出して言ってあげた方が効果があります。「どうせ僕なんて(私なんて)できっこない」なんて言ってるのは、自分で自分のことを馬鹿にしているってことなんだから、絶対に言ってはいけない。
最後に、一人の女の子の作文を読んでお話を終わりにします。これは、約15年前に私が6年生を担任したときの教え子のものです。この子はクラスの中では比較的おとなしい子でした。では聞いてください。
昔の私は「自信」というものがありませんでした。なので修学旅行の話し合いでも自分の意見を言うことは初めは閉ざしていました。グループのみんなが計画を進めていってくれる。だから私は黙っていれば・・。そんな人任せなことを思う時もありました。
ある日、母と私は2人で修学旅行の話をしていました。会話の中で母が「おせんべい焼いてみるとか、そんな体験してみたらどう」と一つのアイディアを口にしました。その時の私は「普通の修学旅行でいい」と思いました。「体験なんてできるわけ絶対ない」と思っていたからです。でも次の日、昨日の母のことを先生に言ってみました。そうしたら先生は「いいじゃない。その意見、グループの中で発表したら」と言われました。少し、私はびっくりしました。でもなんだか、「よし、言ってみよう。」という気持ちがどこからかいっぱい湧いてきました。
話し合いがあった日、私はついに思い切って言ったのです。「おせんべい」初めの一言はこれでした。「おせんべいとか焼く体験しようよ」そうすると、グループの中のある子が「いいかも」と言ってくれました。その時私は、私でも自信をもって意見を言えるんだ、もっと積極的にならないと、と思いました。その後、私の性格をかえた「おせんべい」というアイディアはグループの人たちの協力もあり「雷おこし」となり計画の中に入りました。
私は修学旅行という大きなテーマを通じ、自分のことを見つめ直すことができました。人任せや自信が持てないということは、自分は絶対できない、失敗がこわいと思っていたからだと思います。自分の意見を言い、それが相手に分かってもらえるということがどんなに嬉しいか、今回それが分かりました。これからも意見を言うことがたくさんあると思います。その時は「絶対だいじょうぶ」と心で思い、自分の考えを伝えていきます。