6月会礼での校長の話
2019年6月11日 15時19分今日は、「いのち」について考えてみたいと思います。
お父さんとお母さんが出会って、みんなが産まれた、みんなはお父さんとお母さんから「いのち」をいただいたとも言えます。
では、このいただいた「いのち」はいったい誰のものでしょうか。
「自分のもの」だとするならば、自分の好き勝手に使ってもいいと言うことでしょうか。自分のものだから、乱暴にいのちを扱ってもいいし、いらなくなったらいのちをなくしてしまってもいいのでしょうか。
いいわけがないですよね。つまり、「いのち」は自分のものなんだけど、自分だけのものじゃないということなんです。これはどういうことでしょうか。
私には、2人の娘がいます。もう2人とも大人になっていますが、2人が産まれた日のことは本当によく覚えています。私と妻は、すぐにでも子どもがほしいと思っていたのに、なかなか子どもは授からなかったのです。だから、産まれた日は本当に嬉しかったのです。下の娘はそれから2年足らずで産まれてきてくれて、喜びは倍になりました。でも、すぐに病気になるし、夜中もすぐ泣くしで本当に大変だったけど、いとおしくて仕方がなかったです。この子たちがいない世界なんて考えられないと思ったし、今もそう思っています。つまり、娘の命は娘のものだけど、勝手に死んじゃったりしたら私や私の妻はとても辛いです。だからそういう意味で娘の命は私や私の妻のものだとも言えます。
これは、みんなにも言えることです。みんながいなくなると、みんなのお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんはすごく悲しみます。だから、みんなの命はそういった家族みんなのものとも言えるわけです。
じゃあ、みんながいなくなると悲しむのは家族だけでしょうか。そんなことはありません。私はとても悲しい。そして担任の先生はじめこの学校の先生すべてが悲しむ。友達も悲しむ。嘘だと思ったら、これが終わったら聞いてみるといいよ。そう考えると、みんなの命はここにいるすべての人たちのものだともいえるわけです。好き勝手になくしちゃっていいものではなく、大事にしなければいけないんだ。もしも、この中で誰かをいじめていたり、「死ね」とか「殺す」みたいな汚い言葉を使っていたりする子がいたら、私はそのことを許しません。なぜなら、この中で、いなくなってもいい子やいじめられてもいい子は1人もいませんから。
では、「自分の命を大事にする」ってどうすることなのだろう。
私の好きな言葉の一つに 「一隅を照らす」という言葉があります。これは、最澄というお坊さんの言葉です。 一隅とは目立たない隅っこかもしれないが、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くということです。決して目立つようなことではないけれど、寂しそうな、悲しそうな顔をしている人にそっと寄り添い、その人の心を暖かく照らしてあげるということです。せっかくいただいたいのちだから、自分のまわりの人の役に立ち、まわりの人の心を暖かく照らしてあげられるひとになってほしいなと思っています。
以上、「いのち」の話を終わります。