児童会キャラクター
にじいろとんぼ
女の子の姿(すがた)になって、向笠っ子の前に現(あらわ)れたまぼろしのトンボ。にじ色の羽をもち、向笠っ子に「夢(ゆめ)の花を咲(さ)かせるための種(たね)」をわたしに来た。ふだんは、権現山(ごんげんやま)の神様(かみさま)のお世話(せわ)をしてくらしている。なかよしの友達(ともだち)は、ベッコウトンボとベニイトトンボ。平成12年度、公募(こうぼ)されたデザインの中から、4年生の乗松(のりまつ)さんのものが選ばれた。服そうなどは、毎年アレンジされて、向笠小の学校行事(がっこうぎょうじ)で児童会(じどうかい)の子が演(えん)じている。
まことくん
昆虫(こんちゅう)好きの小学6年生。ビオトープでいつもトンボを探している。とてもやさしい子で、下級生(かきゅうせい)の世話(せわ)をよく見ている。ハリー・ポッターにあこがれて、最近(さいきん)めがねを変えた。いつも冷静(れいせい)で落ち着いているが、やや気が小さい。池でギンヤンマを助けたのがきっかけで、にじいろとんぼとなかよしになった。親友のみのるくんと力を合わせると、校訓(こうくん)の「誠実(せいじつ)」パワーがアップする。平成13年度から、向笠小の行事(ぎょうじ)に登場(とうじょう)している。
みのるくん
運動(うんどう)が得意(とくい)な小学6年生。地元(じもと)のサッカー少年団(しょうねんだん)に入っている。芝生化(しばふか)された向笠小の運動場で、いつもサッカーの練習(れんしゅう)をしている。リフティングの記録(きろく)は、1200回。ヘディングも強い。将来は、ジュビロ磐田(いわた)でプレーするのが夢(ゆめ)。誠とは、5年生の時から同じクラス。正義感(せいぎかん)が強く、明るい性格(せいかく)だが、おっちょこちょいなのでミスが多い。にじいろとんぼから渡(わた)された「夢の花を咲かせる種」をあずかっている。平成13年度から登場(とうじょう)。校訓(こうくん)の「誠実(せいじつ)」を2つに分けて作られたキャラクター。権現山の神様(かみさま)
向笠っ子が楽しそうに行事をしていると、権現山から姿(すがた)を現(あらわ)す。姿をあまり見せないが、声はどこかで聞いたような気がする。「夢の花を咲かせるための種」をにじいろとんぼに託(たく)した。食農教育(しょくのうきょういく)を進め、向笠の田畑(たはた)で作物が豊かに実るのを楽しみにしている。打ちたての蕎麦(そば)が大好物(だいこうぶつ)。
魔女(まじょ)?
向笠っ子の宝(たから)をうばいに来る。なぞの多い存在。「○○先生に似ている」という、うわさもある。向笠っ子の中にも手下がいるらしい。
「おーほっほっほっほっ」という高い笑い声がおそろしい。権現山にたくさんいるハシボソガラスも、魔女(まじょ)があやつっているのかもしれない。
その他
ほかのキャラクターも名前だけしょうかいします。• みどりちゃん
• ごんちゃん(キツネ)
これらのキャラクターが登場するお話をぼしゅうします。
いい作品ができたら、向笠小まで電子メールで送ってください。
集会などで発表したいと思います。
ファミリー活動
ねらい
• 学年の異なる子どもたちが相互に協力して活動することを通して、縦のつながりを深め、互いに思い合って行動する態度を育てる。• 活動に主体的に参加し、学年に応じた力を発揮できるようにする
活動について
• 全校児童を6つのグループ(異学年集団:ファミリー)に分ける。• 年間を通じて、F(ファミリー)出会いの会、ひるがえれF旗(運動会)、ファミリー遊び、ファミリー弁当、ファミリー清掃、さよならFの会を行う。
食堂給食(※コロナ禍以前の取組になります)
向笠小では、毎日、全校の子どもたちが食堂に集合して給食を食べています。
みんなでそろって食べる給食はとてもおいしいです。
誕生日給食
毎月、その月のお誕生日の友達をお祝いする誕生日給食の日があります。食堂給食のいいところ
• 全校が集まっているので楽しい。• 給食の先生と話ができる。給食の先生に直接「おいしかった」と言える。
• 給食を運んだり、食器を片づけたりが楽にできる。
アイスクリームが出るときは、ほとんどの人が食べ終わってから、取りに行くのでおいしく食べられる。
運動会
学年団ごとの表現種目は、今年も低学年がダンス、中学年がソーラン節、高学年がカラーガードを披露しました。
向笠の花・虫
向笠の花
向笠の花木を写真で掲載しています。
●アキグミの花のアーチについて
毎年4月上旬に見られます。杏仁豆腐のような甘いにおいに山が包まれます。
●不思議な花について
何千と咲いていたツツジの花のうち、たった1つだけ紅白のものがありました。花の真ん中で赤と白にきっちりと分かれているのです。写真をよく見てください。1枚の花びらが赤と白に色分けされています。
向笠の虫
●向笠のトンボ
向笠小学校で観察されたトンボ
●ヒオドシチョウの羽化
アカトンボ調査
調査の目的
• 磐田市内南北を縦断する4つの小学校で、アカトンボ、主にアキアカネの群れの移動の実態を解明する。
• 市内の小学校児童にトンボに興味を持たせ、身近な自然を見つめるきっかけとさせる。
• 市内小学校の環境教育の共通テーマとして「アカトンボ」が教材となり、交流学習が成立するのかどうかを見極めるため、予備調査を行う。
調査の方法
昼休みや総合的な学習の時間などを使って、学校敷地内または学校周辺で調査を行う。捕虫網でトンボを捕まえ、胸の黒い筋と羽の模様で、アカトンボの個体の種類を判別する。
調査の期間と回数
9月下旬から10月下旬の間で3回以上
( )小学校 | ||||||
記入例 | ||||||
名前 | 9月25日 | |||||
アキアカネ | 5 | |||||
ナツアカネ | 1 | |||||
ノシメトンボ | 0 | |||||
その他のトンボ | 2 | |||||
参加人数 | 20 | |||||
アカトンボの群れが一番多く見られたのは、何月何日でしたか。 | ||||||
その他のトンボとして、どんなものが見られましたか。 | ||||||
アカトンボの群れが移動していなくなったのは、何月何日ですか。 | ||||||
調査について、お気づきの点がありましたらお書きください。 | ||||||
子どもたちとトンボとのかかわり
下の写真は、ナツアカネである。胸にある3本の黒い線のうち、真ん中の線が長方形のように直角に切れているのでアキアカネと区別できる。また、トンボにはオチンチン(副性器)があるのでオスだとわかる。なんだか、トンボの専門家のような話だが、いくつかの本物を比べさせれば、1年生でもアカトンボの数種類は区別できるようになる。図鑑で調べて名前を調べる作業の方が、よほど高度で、難しい作業である。やはり、この時期に本物にふれさせたい。網を振って、空高く舞うトンボを捕まえる活動は、子どもたちを夢中にさせる。初めは網の中に入ったトンボをうまくつかめなかった子も、慣れてくれば、指の間にはさんで、次々と捕まえてくる。
アカトンボ調査に参加した3年生の男の子が、桶ヶ谷沼に出かけたときに、アカトンボを見つけた。トンボの名前を友達に教えてあげたそうである。その子がかいたワークシートを担任の先生に見せてもらった。マユタテアカネの特徴をよくとらえている。尾の先の跳ね上がったところや、胸の黒い筋が目立たないところなど、本当によく見ている。
アカトンボ調査に参加して、この子の視野が広がった。この子にとって、アカトンボはみな同じなのではなく、こだわりをもって、「マユタテアカネ」と呼ぶのである。今まで見えなかったものが、見えるようになることで、身近な自然を見つめる眼を育てていきたい。
統計資料
環境教育の実践
6つのビオトープ
ビオトープとは
..
『ふるさと向笠』(向笠史談会)、『磐田の発展に尽くした人々』(磐田市教育委員会)、『私家版永田の粃(シイナ)』(永田竹一著)を参考にしました。向笠地区は、郷土史研究がしっかりとなされているところで、特に向笠公民館落成記念として昭和59年に発刊された『ふるさと向笠』は、その白眉(はくび)ともいえます。執筆された方々の熱意が伝わってきました。
史談会の方々には、6年生の社会科の学習で戦争体験の語り部としてたびたび学校にお見えいただいておりますが、本校に赴任した教師をはじめ、今の児童やその保護者たちも郷土の歴史について知らないことが多いのが実状です。上記の3冊の本も学校にはわずかしか常備されておらず、広まっていきません。今回、本校のホームページの更新にあたり、向笠の歴史を広く知っていただくために新たに項を設けました。
古墳(弥生時代~)
平地(へいち)に中村遺跡(なかむらいせき)、笠梅遺跡(かさうめいせき)などが、河岸段丘上(かがんだんきゅうじょう)に権現下遺跡(ごんげんしたいせき)、岩井遺跡(いわいいせき)があります。台地上には、新豊院山墳墓群(しんぽういんさんふんぼぐん)、新屋原古墳群(あらやばらこふんぐん)、権現山遺跡(ごんげんやまいせき)、屋敷山遺跡(やしきやまいせき)、竹之内原遺跡(たけのうちはらいせき)、東原遺跡(ひがしばらいせき)、こしき塚古墳などがあります。
弥生時代(やよいじだい)の墓(はか)や集落跡(しゅうらくあと)に加え、古墳時代(こふんじだい)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、円墳(えんぷん)が見つかっています。
みなさんは、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と言うと、教科書(きょうかしょ)の写真(しゃしん)で見たような近畿地方(きんきちほう)の大きな天皇陵(てんのうりょう)を想像(そうぞう)するかもしれません。
ああいった大きな古墳は、平地(へいち)に造(つく)られ、周(まわ)りに掘(ほり)をめぐらしてありますね。しかし、向笠地区にあるのは、台地の端(はし)の地形(ちけい)を利用(りよう)して造られた墳墓(ふんぼ)で、規模(きぼ)もずいぶん小さくなります。これは、当時(とうじ)の政治(せいじ)の中心地(ちゅうしんち)から遠(とお)く外(はず)れていたためで、墓(はか)に葬(ほうむ)られた人は、地方(ちほう)の豪族(ごうぞく)や役人(やくにん)だと考えられています。
向笠にある古墳(こふん)が小さいと言っても、新豊院(しんぽういん)の前方後円墳は全長(ぜんちょう)約(やく)34m、桶ヶ谷沼(おけがやぬま)西のこしき塚古墳は円墳(えんぷん)で直径(ちょっけい)は約36mもあります。小学校のプールの長さの1.5倍もあるのですから、これだけのものを造るには、多くの手間(てま)がかかったことには、変わりありません。
権現山(ごんげんやま)ビオトープでは、池(いけ)を掘(ほ)ったときに出た土で前方後円墳の形の小山(こやま)を造りましたが、土を盛(も)るのも形(かたち)を整(ととの)えるのも、人手では大変(たいへん)でした。古墳(弥生時代~)
鶴ヶ池伝説(鎌倉時代)
今からおよそ800年前、兄の供養(くよう)のため、放生会(ほうじょうえ)を行い、黄金(おうごん)の札(ふだ)を足につけた鶴(つる)を多く放(はな)ったと言われています。
頼朝の父である源義朝(みなもとのよしとも)は、1159年平治(へいじ)の乱(らん)に敗(やぶ)れ、3人の息子(むすこ)を伴(ともな)って、都から主従八騎(しゅじゅうはっき)で東国(とおごく)へ落ちのびていきました。長男義平(よしひら)、次男朝長(ともなが)、三男頼朝(よりとも)です。
次男朝長(ともなが)は16才でしたが、逃げる途中に太股(ふともも)を切られ、今の岐阜県大垣市(ぎふけんおおがきし)美濃青墓(みのあおはか)までたどり着き、そこで最期(さいご)を遂(と)げました。朝長の家来(けらい)の大谷忠太(おおたにちゅうた)は、遺髪(いはつ)をたずさえて故郷(こきょう)の遠州大谷(今の袋井市)にもどり、そこに墓(はか)を作りました。友永(ともなが)の積雲院前(せきうんいんまえ)の墓がそれだと言われています。朝長が友永となって今でも地名(ちめい)で残(のこ)っているのです。
池宮彰一郎(いけみやしょういちろう)さんの小説(しょうせつ)『平家(へいけ)』上巻(じょうかん)には、朝長(ともなが)のことがわずかに出ています。歴史書(れきししょ)よりも小説(しょうせつ)の方が、当時のイメージをよく伝えることがあります。177ページあたりから読むといいでしょう。
長男義平(よしひら)は、平家(へいけ)に捕らえられて殺され、父の義朝(よしとも)は逃げていたところ、尾張(おわり)今の愛知県(あいちけん)で裏切(うらぎ)りにあって殺(ころ)されてしまいます。残(のこ)った頼朝(よりとも)は、平清盛(たいらのきよもり)によって伊豆(いず)に流刑(るけい)となりました。
その後、頼朝は治承(じしょう)4年(1180)伊豆で挙兵(きょへい)して平家(へいけ)を滅(ほろ)ぼし、建久3年(1192)鎌倉(かまくら)に幕府((ばくふ)を開(ひら)きました。
建久(けんきゅう)9年(1198)10月、頼朝は都(みやこ)へ向かう途中(とちゅう)、朝長(ともなが)の墓所(ぼしょ)に参拝(さんぱい)したと伝えられています。
そこから東海道(とうかいどう)に戻(もど)るとき、岩井の村人たちが、鶴(つる))を数多く飼(か)っているのを知り、村人から十数羽の鶴を(ゆず)り受け、池のほとりで放生会(ほうじょうえ)を開(ひら)きました。以来「鶴ヶ池」と呼ばれるようになったのだというのが鶴ヶ池伝説(つるがいけでんせつ)です。
鶴ヶ池を訪(おとず)れたであろう建久9年(1198)の暮れに頼朝は落馬(らくば)し、そのけががもとで正治元年(1199)正月13日に53才で亡くなってしまいます。しかし、幕府(ばくふ)の公式(こうしき)な記録(きろく)である吾妻鏡(あずまかがみ)では、なぜか1196年から99年2月までの記述(きじゅつ)を欠落(けつらく)させているため、鶴ヶ池の伝説も頼朝の死の真相(しんそう)も定(さだ)かではありません。
鶴ヶ池伝説が縁で、昭和52年(1977)7月に向笠小と愛知県南知多郡美浜町立野間小学校(あいちけんみなみちたぐんみはまちょうりつのましょうがっこう)と姉妹校縁組(しまいこうえんぐみ)をしたことが、記録(きろく)に残(のこ)っています。今では交流(こうりゅう)はありませんが、何かの機会(きかい)に連絡(れんらく)を取(と)り合ってみるのもいいですね。
頼朝の父である源義朝(みなもとのよしとも)は、家臣(かしん)の鎌田正家(かまたまさいえ)の叔父(おじ)である長田忠致(おさだただむね)に暗殺(あんさつ)され、野間(のま)の大坊院(だいぼういん)が菩提寺(ぼだいじ)となっています。
鶴ヶ池で頼朝(よりとも)が放した鶴は、夕日を浴びて西空に飛び去り、野間の大坊院に舞(ま)い降(お)りたそうです。それで、2つの学校が姉妹校縁組を結んだのです。
向笠城のこと(戦国時代)
また、本校の6年生が、修学旅行(しゅうがくりょこう)で鎌倉(かまくら)を訪(おとず)れるようになったのも鶴ヶ池伝説とかかわりがあったからです。
向笠城は、このあたりを治(おさ)めていた領主(りょうしゅ)の向笠氏が守っていた城です。「六笠」と書かれることもあります。
今からおよそ430年前の天正元年(てんしょうがんねん)1573年に攻められ城はつぶされました。明治時代(めいじじだい)の土地改良(とちかいりょう)で田畑(たはた)に変わってしまい、石垣(いしがき)などの跡(あと)は残されていません。そのため、城の正確(せいかく)な場所は分からなくなっています。
城と言っても、天守閣(てんしゅかく)が建つような立派(りっぱ)なものではなく、複雑(ふくざつ)に蛇行(だこう)した敷地川(しきじがわ)と小藪川(こやぶがわ)に囲まれた中州(なかす)に作られた砦(とりで)のようなものであったと想像(そうぞう)されます。今でも地名に残っている竹之内は城の館(たて)の内が訛(なま)って竹之内になったとも言われています。
地区に残された古い地図によると、敷地川はWの字に近い形で流れていたそうですから、戦国時代(せんごくじだい)の向笠の里の風景(ふうけい)は今とずいぶん違(ちが)っていたことでしょう。
今の向笠小学校のすぐ北~北東の辺りに向笠城があったのは、確かなようです。向笠公民館前(むかさこうみんかんまえ)には、向笠史談会(むかさしだんかい)の手によって案内板(あんないばん)が立てられています。
向笠城が日本の歴史(れきし)に登場(とうじょう)するのは、戦国時代(せんごくじだい)、徳川家康(とくがわいえやす)と武田信玄(たけだしんげん)との争(あらそ)いの時です。
武田信玄が遠江(とおとうみ)、つまり今の静岡県西部と中部の一部に攻めてきたときは、武田信玄の方が強く、徳川家康は三方原(みかたはら)で大敗(たいはい)しました。
津本陽(つもとよう)さんの小説『下天は夢か』(日本経済新聞社)の第3巻202ページには、図入りで向笠城のことが出ています。信濃(しなの)から青崩峠(あおくずれとうげ)を南下した武田軍は、天方(あまかた)城、一宮(いちのみや)城、飯田(いいだ)城、向笠城を攻(せ)め落としていくのです。元亀(げんき)3年(1572)12月の三方原合戦(みかたはらかっせん)の前の出来事(できごと)です。そのまま武田信玄は、2万の軍勢(ぐんぜい)で高天神城(たかてんじんじょう)を攻(せ)めますが、落とせませんでした。その後、息子(むすこ)の勝頼(かつより)が高天神城を落とします。向笠城主(じょうしゅ)の向笠伯耆守(むかさほうきのかみ)は、武田側に味方しました。武田と徳川の争いは続き、天竜川を境(さかい)に西を徳川、東を武田が支配(しはい)しました。
しかし、信玄が病気(びょうき)で死んでしまうと、武田の勢(いきお)いが弱まりました。徳川家康は遠江からの武田勢の追い出しにかかります。このとき向笠城は徳川の酒井、平岩の軍に攻め落とされてしまったのです。向笠城主の向笠伯耆守(むかさほうきのかみ)は、高天神城(たかてんじんじょう)の方に逃(に)げましたが、高天神城もやがて徳川勢に落とされてしまいます。このときの戦いで向笠城主向笠彦三郎(むかさひこさぶろう)は討(う)ち死(じ)にしてしまいます。新豊院(しんぽういん)裏山(うらやま)には、向笠伯耆守(むかさほうきのかみ)の墓(はか)があります。
向笠城落城時(むかさじょうらくじょうじ)に、次の城主(じょうしゅ)となるべき虎千代(とらちよ)という名の10才の少年は、家来(けらい)と母親(ははおや)に連(つ)れられて、相模国(さがみのくに)今の神奈川県(かながわけん)にある小田原城(おだわらじょう)に北条氏(ほうじょうし)を頼(たよ)って落ちのびていきました。
北条氏は、「仕える身分の者が刃向かうに通じる向の字を使ってはならぬ。向を武に改めよ。」と、命令しました。以後、武笠(むかさ)の姓(せい)となり、その家系(かけい)は現在(げんざい)も続(つづ)いています。向笠伯耆守(むかさほうきのかみ)の子孫(しそん)は、今、東京(とうきょう)に住んでいるそうです。
東南海地震(昭和)
昭和19年(1944)12月7日、13時38分に大地震(だいじしん)が起(お)きました。
マグニチュード8.3。大正12年の関東大地震(かんとうだいじしん)よりも規模(きぼ)の大きいものでした。
当時、太平洋戦争(たいへいようせんそう)が激(はげ)しく、日本が負けそうになっていたので、軍部(ぐんぶ)が報道管制(ほうどうかんせい)をして被害(ひがい)の様子(ようす)はくわしく知らされませんでした。今のように、テレビや新聞やインターネットなどで情報(じょうほう)があっという間に伝わっていくのとは大ちがいですね。
向笠地区は、358戸のうち、全壊(ぜんかい)122戸、半壊(はんかい)130戸で、死者(ししゃ)も2名でました。太田川流域(おおたがわりゅういき)の軟弱地盤(なんじゃくじばん)の辺(あた)りで被害(ひがい)が大きく、台地上(だいちじょう)の固(かた)い地盤では被害が少(すく)なかったそうです。
当時(とうじ)、地震(じしん)にあった人の話が伝(つた)えられています。
その日は、12月とは思えない異常(いじょう)に暖(あたた)かい、風もない不気味(ぶきみ)な日でした。昼食(ちゅうしょく)をすませて仕事(しごと)に取りかかったころ、地震(じしん)が起こり、その1、2分後に大ゆれとなりました。地面が1メートルも左右に動(うご)いて、家がアッという間(ま)に倒(たお)れ、空も暗(くら)くなりました。
外で働(はたら)いていた人々の話では、地面(じめん)が波打(なみう)って大きくゆれ、山の木は台風(たいふう)のごとくザーザーと音を立て、はっていても人がコロコロ転(ころ)がされ、農耕(のうこう)の牛(うし)も倒(たお)れ、田からは地下水(ちかすい)が吹(ふ)き上がり、道(みち)も雨上(あめあ)がりのようになったそうです。東南海地震(昭和)
竹一おじいさんの戦争の話
終戦(しゅうせん)の混乱(こんらん)の中の年も暮(く)れも迫(せま)ったある日だった。私の家に一人の若(わか)い婦人(ふじん)がたずねて来(き)た。一見(いっけん)都会風(とかいふう)で生活に疲(つか)れ果(は)てた様子(ようす)であるが、どこか気品(きひん)のある方であった。
「わたしは、永田(ながた)さんと同じ部隊(ぶたい)におりました、静岡市の山本の家内(かない)でございます。主人(しゅじん)が復員後(ふくいんご)すっかり体を悪(わる)くしまして家で寝(ね)ております。医師(いし)が言うには栄養失調(えいようしっちょう)もあるそうです。道(みち)を尋(たず)ねてやっと参(まい)りました。無理(ごむり)でしょうがお米を少し分(わ)けていただけないでしょうか。」
ということでした。
当時(とうじ)は汽車(きしゃ)の切符(きっぷ)も思うように手に入らない。それをやっと手に入れ、袋井駅(ふくろいえき)から人に聞(き)きながら初(はじ)めての土地(とち)を来るのは、簡単(かんたん)なことではなかった。私はその話を聞(き)いているうちに戦友(せんゆう)だった山本の顔(かお)を思い出した。彼(かれ)は体力的(たいりょくてき)には弱(よわ)く、どちらかといえば兵隊向(む)きではなく、学者(がくしゃ)向きであった。戦災(せんさい)で家は焼失(しょうしつ)されたとは聞いていたが、病床(びょうしょう)にいるとは知らなかった。
気の毒(どく)でわたしはすぐにでも米を分けてやりたい気持(きも)ちであったが、米がその当時どんなに貴重(きちょう)なものであったか。政府以外(せいふいがい)には売(う)ってはならないという法律(ほうりつ)によって、農家が米を人に分けることはとても厳(きび)しかった。自分の家に米があっても、はいどうぞと分けてやることはできない。
米は自家保有(じかほゆう)の半分(はんぶん)しかなくても、それを代用食で補(おぎな)うことは農家であればこそできたことである。さつまいも、かぼちゃ、粟(あわ)、黍(きび)、野菜と、それでも都会の人より恵(めぐ)まれていた。「かぼちゃばかり食べるので肌の色が黄色になった。」などが村の会話(かいわ)であった。
その当時(とうじ)米がどれだけ大切な物だったかと言うことは、今の子どもたちには実感(じっかん)がわかないだろう。ヤミ米を持っていけばたいていのものが手に入った時代であった。当時サラリーマンは1ヶ月の給料(きゅうりょう)でヤミ米2斗(と)<30kg>買えなかったほどである。今で言うと、給食(きゅうしょく)のちゃわん1杯のごはんが2000~3000円ぐらいの値段(ねだん)になるのだろう。
そんな時代のことなどで戦友(せんゆう)山本の頼(たの)みであっても、すぐには応(おう)じることができなかった。
父に相談(そうだん)してみたが、「気の毒(どく)だが代用食でも分けてやるしかないな」と言われた。山本のおくさんは、さつまいも、かぼちゃ、粟(あわ)、黍(きび)、野菜(やさい)などの代用食がほしいのではない。米がほしいのだ。だからこそ、苦労してこんな遠くまできたのだ。そう思うとつらくなった。
なおも、山本のおくさんは必死(ひっし)にうったえた。
「お米を分けていただいても決してお宅の名前は出しません。」
警察に見つかって、永田の名前を出せば、私の家がめいわくすると考えてのことだろう。でも、それではその米は盗(ぬす)んできたことになってしまう。いったいどうすればいいのか。
考えたあげく、わたしは、父の言いつけに背(そむ)いて、こっそりと5斗<7.5㎏>の白米(はくまい)を分けてやった。
「山本さん、このお米を持ってお行きなさい。」
その若い婦人は言った。
「持(も)っていく方法(ほうほう)については近所(きんじょ)の人に教(おそ)わってきました。米の袋(ふくろ)を子供(こども)のように背負(せお)って、その上にねんねこを着(き)せて、帽子(ぼうし)をかぶらせて行くつもりです。」
すぐに帰りの支度(したく)をはじめた。すぐに夫の元にもどりたいのだろう。
お米を背負った婦人の姿(すがた)を見て、私は心配(しんぱい)になった。いくらうまくかくしても、どこか不自然(ふしぜん)だった。あれでは見つかってしまうのではないだろうか。だが、言い出せなかった。
汽車の時間(じかん)にも迫(せま)られて、山本のおくさんをバス停まで送(おく)って行った。やってきたバスにはお客(きゃく)が1人も乗(の)っていなかった。それがかえって不気味(ぶきみ)であった。走り去(さ)るバスに向かって
「無事(ぶじ)で行ってくれるように。」と小さな声で祈(いの)った。
バスは、夕ぐれの袋井駅(ふくろいえき)に着(つ)いた。若い婦人がおそるおそる駅(えき)の中をうかがうと、取締(とりしま)り警官(けいかん)が2人いた。改札口(かいさつぐち)の手前(てまえ)で、お客の大きな荷物(にもつ)の中を開(あ)けてひとりひとり調(しら)べていたという。
山本のおくさんは、もうどうしようもなく、改札口に向かうしかなかった。列(れつ)に並(なら)んで待つと、警官がどんどん近(ちか)づいてきた。病気で寝(ね)ている夫の姿があたまにうかんだ。薄い氷の上を歩くようにしずかに進んでいくと、警官の1人が米の袋(ふくろ)の上の帽子(ぼうし)に手をかけた。心臓(しんぞう)が止(と)まるのではないかと思った。
警官はねんねこの袋をポンとたたいて、「坊(ぼう)やに風邪(かぜ)をひかせないようにな。」と言った。
急ぎ足でホームに立っても、まだ足のふるえが止まらなかった。
それから2、3日して山本より1通の手紙がきた。『○○ありがとう。<米と書かないような工夫があった>無事(ぶじ)に持ち帰りました。』とあった。とにかく安心(あんしん)した。
お米を食べて栄養(えいよう)がついたのか、山本も元気を取りもどしたそうだ。
参考(さんこう)までに当時は、米価公定価格(べいかこうていかかく)は1kgが1円で、ヤミ相場(そうば)は25円だった。この価格からも食糧難(しょくりょうなん)の時代を物語(ものがた)っている。それにしても、あの警察官は、本当の坊やと思ったのだろうか。いや、分かっていて見のがしてくれたのだろうか。
郷土の発展に尽くした人の話(1)
そのお金をすべて使い切り、なおかつ借金(しゃっきん)をしてまで他人(たにん)を幸(しあわ)せにしようとする人が向笠にいました。
高塚太郎平さんは、江戸時代(えどじだい)の終(お)わり、弘化(こうか)2年(1845)、磐田郡向笠村(いわたぐんむかさむら)に生まれました。
近くの村々に田畑や山林を持つ資産家(しさんか)の長男(ちょうなん)で、25才の時に19代目の当主(とうしゅ)となりました。
明治時代(めいじじだい)になって、学制(がくせい)が施行(しこう)されました。このとき28才の太郎平さんは、学校建設(がっこうけんせつ)のための資金(しきん)を全額寄付(ぜんがくきふ)しました。わたしたちの学校が、全国的(ぜんこくてき)に見ても最(もっと)も歴史(れきし)の古(ふる)い学校の一つに数(かぞ)えられるのは、太郎平さんが、自分(じぶん)のお金(かね)で今の新宝院(しんぽういん)の場所(ばしょ)に学校を建(た)ててくださってからです。
今の向笠小(むかさしょう)の基礎(きそ)を築(きず)いてくださっただけではありません。向笠地区(むかさちく)の発展(はってん)を考えて、新しい道(みち)を造(つく)ることを思(おも)い立ったのです。現在(げんざい)、法雲寺(ほううんじ)のそばに向笠史談会(むかさしだんかい)の手によって立てられた「高塚太郎平新道」の案内板(あんないばん)があります。向笠小の子どもたちは、平地(へいち)から台地(だいち)の崖(がけ)をわずかに登(のぼ)る道(みち)が高塚新道(たかつかしんどう)だと思(おも)っているのではないでしょうか。
太郎平さんが私財(しざい)を使(つか)って造(つく)った新道(しんどう)は、今の袋井市(ふくろいし)、原野谷橋西側(はらのやばしにしがわ)の久努村(くどむら)名栗(なぐり)から、久努西(くどにし)、今井(いまい)、向笠(むかさ)、大藤(おおふじ)、富岡(とみおか)の各村(かくそん)を通って磐田村匂坂西(いわたむらさぎさかにし)を終点(しゅうてん)とする延長(えんちょう)13km、幅(はば)3.6mの車道(しゃどう)でした。
中遠地方(ちゅうえんちほう)の産業(さんぎょう)の遅(おく)れに心を痛(いた)めていた太郎平さんは、「そうだ、商業(しょうぎょう)の先進地(せんしんち)である笠井(かさい)と向笠を結(むす)ぶことができれば、この辺(あた)りの産業(さんぎょう)も、もっと盛(さか)んになるにちがいない。」
と、考えました。このころ、東海道(とうかいどう)より北(きた)には車道(しゃどう)はなく、人が通(とお)れるくらいの幅(はば)のせまい道(みち)しかありませんでした。荷物(にもつ)は人が肩(かた)に担(かつ)いで運(はこ)んでいました。
思い立ったら、すぐに行動(こうどう)に移(うつ)す人だったのでしょう。太郎平さんは、すぐに路線(ろせん)の測量(そくりょう)と見積(みつ)もり設計(せっけい)に取(と)りかかりました。そのときの太郎平さんのやる気と情熱(じょうねつ)が目に浮(う)かびます。
しかし、太郎平さんの進(すす)んだ考えは、向笠の人たちには受(う)け入れられませんでした。
「今は、新しい道路(どうろ)の価値(かち)が分かってもらえないかもしれないが、将来(しょうらい)きっと役(やく)に立つのだ。」
太郎平さんは、たった一人でやりとげる決意(けつい)を固(かた)め、新道(しんどう)の計画書(けいかくしょ)を役所(やくしょ)に提出(ていしゅつ)しました。
ついに工事(こうじ)が始(はじ)まりました。太郎平さん自身(じしん)も朝早(あさはや)くから夜遅(よるおそ)くまで作業(さぎょう)に精(せい)を出しました。しばらくは順調(じゅんちょう)に進(すす)んでいましたが、予想(よそう)して以上(いじょう)にお金がかかり、太郎平さんは、全財産(ぜんさいさん)を使(つか)い果(は)たしてしまいます。
疲(つか)れ果(は)てた太郎平さんは、浜松(はままつ)の有力者(ゆうりょくしゃ)である松島吉平さんに相談(そうだん)に行きました。
「私は疲れた。もうお金がない。あと、少しで完成(かんせい)するというのに・・・・・・・・」
松島さんは、太郎平さんをはげまし、資金(しきん)を援助(えんじょ)してくれたので工事(こうじ)を続(つづ)けることができました。
明治20年4月11日。可睡斉(かすいさい)で道路(どうろ)の完成(かんせい)の式(しき)が行われました。太郎平さんの話にみんなは耳を傾(かたむ)けました。
「6年間があっという間(ま)に過(す)ぎてしまいました。この間、家族(かぞく)には大変(たいへん)な迷惑(めいわく)をかけてきました。しかし、今こうして道ができあがりました。これは、私一人の力ではなく、家族や松島吉平君、それに沿道(えんどう)の人々の協力(きょうりょく)があったからこそであります。この道ができたことは私一人の喜(よろこ)びではなく、沿道の村々の喜びであり幸(しあわ)せであると思います。」
拍手(はくしゅ)が鳴(な)りやみませんでした。
大金持ちだった太郎平さんは、その後どうなったのでしょう。
銀行(ぎんこう)から借(か)りたお金のことで裁判(さいばん)に負(ま)けて、土地(とち)も家もお金もすべて失(うしな)いました。住(す)み慣(な)れた家も手放(てばな)すことになりました。一家はバラバラとなり、子供たちとも分かれて暮(く)らさなければならなくなりました。夫婦(ふうふ)は知人(ちじん)の家に住(す)まわせてもらい、子供(こども)たちは親類(しんるい)に預(あず)けられました。そして明治32年太郎平さんは、56歳(さい)でこの世(よ)を去(さ)りました。
自分のお金で造(つく)った道でしたから、完成(かんせい)してから13年間は、通行料(つうこうりょう)を取(と)ることが県(けん)から認(みと)められていました。しかし、新しい道はだれでもただで通(とお)ることができました。太郎平さんは、自分がどんなに貧(まず)しくなっても通行料(つうこうりょう)を取(と)ることをしませんでした。
いったい太郎平さんは、新道の完成にいくらをつぎ込んだのでしょうか。気になるので調べてみました。磐田市教育委員会発行の「磐田の発展に尽した人々」によれば、新道の建設の費用は、6000円をこえたとあります。
新道が完成した明治20年(1887)と120年後の現在とでは、経済の状態が違うので比較が難しいですが、金と米をもとにして考えてみます。
金1グラムは、平成16年8月30日の相場で1445円です。明治政府の金本位制では、明治30年までは1円を金1.5グラムとしていました。新道建設当時の6000円は、今の1300万円くらいです。うーん、こんなに安いわけはないですね。
米で考えてみます。当時の米価が一俵1円55銭、平成12年の米価が一俵およそ15000円だそうです。すると、昔の1円が今の10000円くらいになりますから、結果は6000万円。
どちらにしても、安すぎる気がします。太郎平は、自分の田畑、山林二十六町歩を抵当に入れています。一町歩が三千坪とすると、七千八百坪。およそ25ヘクタールですから広大な土地を手放していることが分かります。さらに自分の家まで失っているのです。
今の資産価値で言えば、一億円をこえる費用を道路建設に使ったのではないでしょうか。こんなすさまじい生き方をする人を今の日本で探すことができるでしょうか。
「名を買わんよりむしろ破廉恥を売るなかれ。妻子を愛隣するよりむしろ天下貧人を愛せよ。」と太郎平さんは常に人に語っていたそうです。そして、その通りの生き方を貫いたのです。
郷土の発展に尽くした人の話(2)
向笠のあたりは、中沢(なかざわ)川が敷地(しきじ)川に注(そそ)ぎ、その敷地川が小藪川(こやぶ)に注ぎ、小藪川が太田川に注いでいます。
幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)の初(はじ)めころ、川の流(なが)れを変え、堤防を築(きず)きいた人がいました。200年近(ちか)く昔(むかし)のその仕事のおかげで、笠梅、向笠新屋(むかさあらや)、竹之内地区は洪水を免(まぬが)れているのです。
宇藤半兵衛さんは、1820年に向笠の笠梅(かさうめ)地区(ちく)に生まれました。当時(とうじ)の村長の家の長男(ちょうなん)でした。
半兵衛さんが9歳(さい)の秋、大洪水(だいこうずい)が起きました。その復興(ふっこう)のために半兵衛一家(いっか)は村人の先頭(せんとう)に立ち、荒(あ)れた土地の開墾(かいこん)を行(おこな)いました。
このとき、半兵衛さんは、水害(すいがい)から村を守(まも)ることを自分(じぶん)の一生(いっしょう)の仕事(しごと)と考(かんが)えるようになりました。
半兵衛さんは、よく勉強(べんきょう)し、考え、今までの水害の様子(ようす)を調(しら)べました。そして、洪水(こうずい)の原因(げんいん)を見つけました。
「曲(ま)がりくねった川の流れをまっすぐにし、しっかりとした堤防を造り直(なお)せば、きっと洪水を防(ふせ)げるにちがいない。」
一つ一つの川について工事の仕方(しかた)をくわしくまとめていきました。
若(わか)い半兵衛さんは、大規模(だいきぼ)な工事(こうじ)となるために、村人たちの協力(きょうりょく)をお願(ねが)いに行きました。しかし、多くの人たちは、水害(すいがい)の恐(おそ)ろしさや苦(くる)しみをよく知(し)っているのにもかかわらず、
「堤防(ていぼう)を造(つく)るために、自分(じぶん)の土地(とち)を取(と)られるのはいやだ。」「川の工事(こうじ)ばっかりやってるわけにはいかない。ほかの仕事(しごと)もいそがしい。」「どうせ自然(しぜん)には勝(か)てないから。」と、言って賛成(さんせい)してくれませんでした。
それでも、半兵衛さんはあきらめせんでした。何度(なんど)も何度もお願いに行きました。村人たちは、半兵衛さんの態度(たいど)に感心(かんしん)し、しだいに力を貸(か)してくれるようになりました。ついに工事が始(はじ)まりました。多額(たがく)の工事費(こうじひ)の調達(ちょうたつ)も半兵衛さんが中心(ちゅうしん)になって行いました。
3年間かかって、敷地川の流れを変えました。次に堤防(ていぼう)がなかった小藪川に長さ数kmにわたる強固(きょうこ)な堤防を築(きず)き上げました。最後に、中沢川を敷地川に流れ込みやすくするために流路(りゅうろ)を変え、字(あざ)で言うと、山崎(やまざき)、大掛(おおがけ)、天神(てんじん)の山すそを切り開(ひら)き、低地(ていち)にあった家(いえ)や建物(たてもの)を移転(いてん)しました。
山に囲(かこ)まれた低地(ていち)のため、洪水のたびに海のようになることから「大海(だいかい)」と名づけられ、十年一作の土地として有名(ゆうめい)だった場所(ばしょ)が、豊(ゆた)かな穀倉地帯(こくそうちたい)に生まれ変われました。集会場(しゅうかいじょう)の天井(てんじょう)に備(そな)え付けられていた洪水用の船(ふね)やそれぞれの家の「水あげ台」も使(つか)われることがなくなりました。
その後、1869年(明治2年)に半兵衛さんは村長になり、村人のために大いに働きました。国から2回の表彰を受け、77歳でこの世を去りました。半兵衛さんの立派(りっぱ)な仕事をたたえ、笠梅の小倉神社(こくらじんじゃ)には、功徳碑(こうとくひ)が建立されています。