校長室から

子どもに「寄り添う」とはどういうことだろう(校長室から)

2020年7月14日 14時00分
保護者向けの話

 皆さんは、灰谷健次郎(昭和9年10月31日 - 平成18年11月23日)という作家をご存じでしょうか。神戸市立公立学校教員を17年間勤めた後、作家に転身、「兎の眼」「太陽の子」「天の瞳」など多くの小説を世に残します。
 私は、教師になりたての頃、同氏の本を夢中になって読んだことを思い出します。最近、ふとした拍子に、屋根裏の書庫から、もう一度同氏の本を引っ張り出して読むことがあります。ここでは、同氏の著書の中で紹介されることも多い「チューインガム一つ」という詩を紹介しながら、子どもに寄り添うとはどういうことかを考えてみたいと思います。

チューインガム一つ
         
せんせい おこらんとって
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごくわるいことした


わたし おみせやさんの
チューインガムとってん
一年生の子とふたりで
チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた
きっと かみさん(神様)が
おばさんにしらせたんや
わたし ものもいわれへん
からだが おもちゃみたいに
カタカタふるえるねん
わたしが一年生の子に
「とり」いうてん
一年生の子が
「あんたもとり」いうたけど
 わたしはみつかったらいややから
 いややいうた


一年生の子がとった


でも わたしがわるい
その子の百倍も千ばいもわるい
わるい
わるい
わるい
わたしがわるい
おかあちゃんに
みつからへんとおもったのに
やっぱり すぐ みつかった
あんなこわいおかあちゃんのかお
見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない
しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
おかあちゃんはなきながら
そないいうねん


わたしひとりで出ていってん
いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても
どこへもいくとこあらへん
なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん
おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん
けどおかあちゃんは
わたしのかおを見て ないてばかりいる
わたしは どうして
あんなわるいことしてんやろ


もう二日もたっているのに
おかあちゃんは
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしよう

 
 この詩は同氏が担任をしていた小学校3年生の女の子の詩だそうです。文章や詩を書くことが得意な子どもなのかといえば、決してそうではなかったそうです。初め、「チューインガムを盗んだ。もうしないから、先生、ごめんしてください。」という意味の簡単な紙切れをもって母親と一緒に同氏の元に来たそうです。彼女に対して「本当のことを書こうな」と一言言って、母親には帰ってもらって、彼女と二人きりになったそうです。
 彼女は、一言書いては泣くし、一行書いては泣く、泣いている時間の方がはるかに多かったというのです。さらに彼女と同氏の間で、言葉のやり取りは全くなかったというのです。

 教師にとって、これほど辛く苦しい時間はなかっただろうと想像します。許しを乞う子どもを目の前にしたら、「分かったよ。もう同じことしちゃダメだよ。」と言ってあげたら、どんなに楽でどんなに優しく見えるでしょう。でも、許してあげることで、子どもが自分の内面を見つめるという作業を奪ってしまうことにもつながります。

 

 悪いことをするというのは人間の恥部をさらすことであり、できれば隠しておきたいと思うものです。ましてや、自身の良くない行為が見つかった後、自身を見つめることは最も苦痛な作業であり、できれば避けて通りたいと思うのは、大人でも子どもでも変わらないでしょう。でも、このことをやらないと、人間としての成長は難しいことも、大人なら誰しも分かることです。

 「わたしがわるい その子の百倍も千ばいもわるい」「わたしは どうして あんなわるいことしてんやろ」「せんせい どないしよう」と自分を見つめ、次からどうしたらいいのかを考えることこそ、子どもの成長には欠かせない作業だと言えます。

 同氏は、著書の中で次のように述べています。「あの作品が生まれるまでに彼女はどれくらいひどい血だらけの格闘をしたか。それはまた同時にぼくが血だらけになるということでもあるわけです。(中略)その辛さをお互いに耐え抜くことが、教師と子どものたった一つのどうしても抜きがたい関係だというふうに考えているわけです。」

 私は、これまで教師としても、親としても、これほど真正面から子どもと格闘したことがあっただろうか、反省しきりです…。