もし、みなさんが大金持ちの家(いえ)に生まれていたら、そのお金を何(なに)に使(つか)いますか?
そのお金をすべて使い切り、なおかつ借金(しゃっきん)をしてまで他人(たにん)を幸(しあわ)せにしようとする人が向笠にいました。
高塚太郎平さんは、江戸時代(えどじだい)の終(お)わり、弘化(こうか)2年(1845)、磐田郡向笠村(いわたぐんむかさむら)に生まれました。
近くの村々に田畑や山林を持つ資産家(しさんか)の長男(ちょうなん)で、25才の時に19代目の当主(とうしゅ)となりました。
明治時代(めいじじだい)になって、学制(がくせい)が施行(しこう)されました。このとき28才の太郎平さんは、学校建設(がっこうけんせつ)のための資金(しきん)を全額寄付(ぜんがくきふ)しました。わたしたちの学校が、全国的(ぜんこくてき)に見ても最(もっと)も歴史(れきし)の古(ふる)い学校の一つに数(かぞ)えられるのは、太郎平さんが、自分(じぶん)のお金(かね)で今の新宝院(しんぽういん)の場所(ばしょ)に学校を建(た)ててくださってからです。
今の向笠小(むかさしょう)の基礎(きそ)を築(きず)いてくださっただけではありません。向笠地区(むかさちく)の発展(はってん)を考えて、新しい道(みち)を造(つく)ることを思(おも)い立ったのです。現在(げんざい)、法雲寺(ほううんじ)のそばに向笠史談会(むかさしだんかい)の手によって立てられた「高塚太郎平新道」の案内板(あんないばん)があります。向笠小の子どもたちは、平地(へいち)から台地(だいち)の崖(がけ)をわずかに登(のぼ)る道(みち)が高塚新道(たかつかしんどう)だと思(おも)っているのではないでしょうか。
太郎平さんが私財(しざい)を使(つか)って造(つく)った新道(しんどう)は、今の袋井市(ふくろいし)、原野谷橋西側(はらのやばしにしがわ)の久努村(くどむら)名栗(なぐり)から、久努西(くどにし)、今井(いまい)、向笠(むかさ)、大藤(おおふじ)、富岡(とみおか)の各村(かくそん)を通って磐田村匂坂西(いわたむらさぎさかにし)を終点(しゅうてん)とする延長(えんちょう)13km、幅(はば)3.6mの車道(しゃどう)でした。
中遠地方(ちゅうえんちほう)の産業(さんぎょう)の遅(おく)れに心を痛(いた)めていた太郎平さんは、「そうだ、商業(しょうぎょう)の先進地(せんしんち)である笠井(かさい)と向笠を結(むす)ぶことができれば、この辺(あた)りの産業(さんぎょう)も、もっと盛(さか)んになるにちがいない。」
と、考えました。このころ、東海道(とうかいどう)より北(きた)には車道(しゃどう)はなく、人が通(とお)れるくらいの幅(はば)のせまい道(みち)しかありませんでした。荷物(にもつ)は人が肩(かた)に担(かつ)いで運(はこ)んでいました。
思い立ったら、すぐに行動(こうどう)に移(うつ)す人だったのでしょう。太郎平さんは、すぐに路線(ろせん)の測量(そくりょう)と見積(みつ)もり設計(せっけい)に取(と)りかかりました。そのときの太郎平さんのやる気と情熱(じょうねつ)が目に浮(う)かびます。
しかし、太郎平さんの進(すす)んだ考えは、向笠の人たちには受(う)け入れられませんでした。
「今は、新しい道路(どうろ)の価値(かち)が分かってもらえないかもしれないが、将来(しょうらい)きっと役(やく)に立つのだ。」
太郎平さんは、たった一人でやりとげる決意(けつい)を固(かた)め、新道(しんどう)の計画書(けいかくしょ)を役所(やくしょ)に提出(ていしゅつ)しました。
ついに工事(こうじ)が始(はじ)まりました。太郎平さん自身(じしん)も朝早(あさはや)くから夜遅(よるおそ)くまで作業(さぎょう)に精(せい)を出しました。しばらくは順調(じゅんちょう)に進(すす)んでいましたが、予想(よそう)して以上(いじょう)にお金がかかり、太郎平さんは、全財産(ぜんさいさん)を使(つか)い果(は)たしてしまいます。
疲(つか)れ果(は)てた太郎平さんは、浜松(はままつ)の有力者(ゆうりょくしゃ)である松島吉平さんに相談(そうだん)に行きました。
「私は疲れた。もうお金がない。あと、少しで完成(かんせい)するというのに・・・・・・・・」
松島さんは、太郎平さんをはげまし、資金(しきん)を援助(えんじょ)してくれたので工事(こうじ)を続(つづ)けることができました。
明治20年4月11日。可睡斉(かすいさい)で道路(どうろ)の完成(かんせい)の式(しき)が行われました。太郎平さんの話にみんなは耳を傾(かたむ)けました。
「6年間があっという間(ま)に過(す)ぎてしまいました。この間、家族(かぞく)には大変(たいへん)な迷惑(めいわく)をかけてきました。しかし、今こうして道ができあがりました。これは、私一人の力ではなく、家族や松島吉平君、それに沿道(えんどう)の人々の協力(きょうりょく)があったからこそであります。この道ができたことは私一人の喜(よろこ)びではなく、沿道の村々の喜びであり幸(しあわ)せであると思います。」
拍手(はくしゅ)が鳴(な)りやみませんでした。
大金持ちだった太郎平さんは、その後どうなったのでしょう。
銀行(ぎんこう)から借(か)りたお金のことで裁判(さいばん)に負(ま)けて、土地(とち)も家もお金もすべて失(うしな)いました。住(す)み慣(な)れた家も手放(てばな)すことになりました。一家はバラバラとなり、子供たちとも分かれて暮(く)らさなければならなくなりました。夫婦(ふうふ)は知人(ちじん)の家に住(す)まわせてもらい、子供(こども)たちは親類(しんるい)に預(あず)けられました。そして明治32年太郎平さんは、56歳(さい)でこの世(よ)を去(さ)りました。
自分のお金で造(つく)った道でしたから、完成(かんせい)してから13年間は、通行料(つうこうりょう)を取(と)ることが県(けん)から認(みと)められていました。しかし、新しい道はだれでもただで通(とお)ることができました。太郎平さんは、自分がどんなに貧(まず)しくなっても通行料(つうこうりょう)を取(と)ることをしませんでした。
いったい太郎平さんは、新道の完成にいくらをつぎ込んだのでしょうか。気になるので調べてみました。磐田市教育委員会発行の「磐田の発展に尽した人々」によれば、新道の建設の費用は、6000円をこえたとあります。
新道が完成した明治20年(1887)と120年後の現在とでは、経済の状態が違うので比較が難しいですが、金と米をもとにして考えてみます。
金1グラムは、平成16年8月30日の相場で1445円です。明治政府の金本位制では、明治30年までは1円を金1.5グラムとしていました。新道建設当時の6000円は、今の1300万円くらいです。うーん、こんなに安いわけはないですね。
米で考えてみます。当時の米価が一俵1円55銭、平成12年の米価が一俵およそ15000円だそうです。すると、昔の1円が今の10000円くらいになりますから、結果は6000万円。
どちらにしても、安すぎる気がします。太郎平は、自分の田畑、山林二十六町歩を抵当に入れています。一町歩が三千坪とすると、七千八百坪。およそ25ヘクタールですから広大な土地を手放していることが分かります。さらに自分の家まで失っているのです。
今の資産価値で言えば、一億円をこえる費用を道路建設に使ったのではないでしょうか。こんなすさまじい生き方をする人を今の日本で探すことができるでしょうか。
「名を買わんよりむしろ破廉恥を売るなかれ。妻子を愛隣するよりむしろ天下貧人を愛せよ。」と太郎平さんは常に人に語っていたそうです。そして、その通りの生き方を貫いたのです。